言葉にすることで見えてくるものと見えなくなるもの(「言語化」について)

amy
·
公開:2025/5/6

こういった記事を読んで言語化の功罪について、少し考えてみた

最近「言語化」という言葉をよく見かけるようになった。 感情やモヤモヤを言葉にすることで自分を整理したり、他人に伝えたり。時には自分の立ち位置を社会に向けて発信することもできる。

SNSやエッセイ、Podcastでも「感情の言語化が大事」とされる場面は増えていて私自身も言葉にすることで助けられてきた経験は少なくない。

けれど同時に「言語化には功罪がある」とも思っている。


◎言語化の“功”とはなにか?

まず「功」の側面。言語化の恩恵でいちばん分かりやすいのは「自己理解が進むこと」だ。 言葉にすることで、漠然とした気持ちに輪郭が与えられる。

「なんかしんどい」ではなく「自分は〇〇に対して不安を感じていたのか」と認識できるようになると、それだけで少し楽になることがあるしマイナスな感情の面ではなく、映画や漫画や小説などのあらゆるフィクションの感想なんかが最たるものだ。「なんかすごいおもしろかった!」の「なんか」の中身がわかったような気になって、気持ちがいいし楽しい

また気持ちを言葉にすることは他者との関係性を築くうえでも大切だと思う。 「こういうとき、私はこう感じる」と伝えられると相手もそれに対して配慮したり、距離感を調整したりしやすくなる。

そして「言語化された自己」は社会の中で“発信可能な自分”としても機能する。 日記やSNSで言葉にしたことが誰かに届いて、それが共感や対話のきっかけになることもある。今は亡きTwitter(現X)はそもそもそういう楽しさが発端となって発展してきた。ここでいうTwitterとはあの頃のTwitterであって、現在のイーロンなんとかとかにぐっちゃぐちゃにされたプラットフォームを指しているわけではない

◎ でも、「言語化」には“落とし穴”もある

ただ大きな問題もある。

それは「輪郭を得たことに安心してしまって、その先の探究が止まってしまう」ということだ。 たとえば「私は落ち込みやすい性格だから」と言語化できたことで自分を理解できた気になる。 でもそれで満足してしまうと「なぜそうなったのか?」という問いを忘れてしまう。

その「落ち込みやすさ」が実はジェンダーによる刷り込みや、階級的な格差、あるいは家庭環境や育成の文脈に由来している可能性だってある。 でも輪郭が与えられたことで「それって性格の問題でしょ?」と“個人の問題”として内在化されてしまうし、自分自身でもしてしまう。 その結果、構造的な不正義や抑圧への視点が失われてしまうのではないか、と私は感じている。

そして、マジョリティ側においてはこの“自己完結”がさらに強調される傾向があると思う。 たとえば、社会的な立場で恵まれている人々は「自己理解が深まったからもう大丈夫」と自分の課題に対して自己完結してしまうことがある。 これがさらに厄介なのは、自己完結したその感覚が他者にも押し付けられて「自分のようにすればできる」と考えてしまう点だ。「マジョリティ側」にいるからこそ、言語化が自分の内部の問題だけで終えることができてしまう。でもそれは他者や社会の構造に目を向けるきっかけを逃してしまう。この視点の欠如が社会的な不正義や抑圧を見逃すことにつながりかねない。

「語れる者が語る言葉」が基準となることで、語れない人々がさらに黙らされる。社会的に見過ごされてきた痛みがさらに見えなくなるのだ。

◎「語れる人」と「語れない人」のあいだにあるもの

もうひとつの問題は言語化には“語る力”と“語る余裕”が必要だという点だ。 言葉にできる人だけが自分の痛みや経験を可視化できる。 逆に言えば「語れない痛み」は存在しないかのように扱われてしまう。

人によって文章や言葉を読み解くことにさして苦がない人もいれば難しい人もいる。ディスレクシアの人たちやメンタルヘルス的なことで本が読めなくなったという人もいるし、そもそも言語処理が得意な人もいれば不得意な人もいて、それは当然のことだ。私は言語処理はそれなりに得意だが音声処理が苦手なのでAudibleを活用できない。

これは結果的に、マイノリティの声をかき消してしまう危険にもつながる。 社会的に可視化されやすい痛みと、沈黙せざるをえない痛みのあいだに不均衡が生まれてしまう。

しかも言語化された「自分の物語」が説得力を持てば持つほど、それ以外の語られ方が排除される、ということも起こりうる。 「語れる者が語る言葉」が基準となってしまえば、それは少しずつ誰かの沈黙を塗りつぶしてしまうことになる。

◎ 雑な自己理解が、他者理解を歪めることもある

そしてこれは自分の中だけの話にとどまらない。輪郭を持った自己理解は、そのまま“他人を見るときの物差し”になりがちだ。

「自分はこうやって乗り越えたから、あなたもできるはず」

「自分もつらかったけど、こうやって頑張ったよ」

こういった言葉はときに共感のように見えて、背景への想像力を欠いた暴力になることがある。それがさらに強くなると「なんで言葉にできないの?」「ちゃんと説明してよ」というプレッシャーに変わってしまう。

言語化が“できること”に価値が置かれる環境では「語れないこと」に向き合う力が育ちにくい。

◎言葉にしたあとから始まる

だからこ私は「言語化されたものをどう扱うか」が大切だと思っている。

言葉にできたからそれで終わり、ではなくてその言葉の背景には何があるのか、ということだ。

なぜそれを言葉にせざるを得なかったのか。そして、それを語れない人がいるとしたら、どうしてなのか。そんなふうに、言語化の“あと”にある問いに向き合っていきたい。

言語化はたしかに力になる。でも、その力が誰かを置き去りにしたり構造への目を曇らせたりしないようにしたい。

言葉の輪郭だけで満足せず、その奥にあるものを丁寧に見ていく視線を忘れずにいたいと思う。

@amy
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