『客観性の落とし穴』という本を読んだ
大学で教鞭をとる筆者が講義において学生から多くの「客観的な妥当性はあるのか」という意見を受け取った。客観性を担保するものはデータであり、数値としてのエビデンスであるけれど、数値に過大な価値を見い出せば、個人の経験などは顧みられない社会になってしまうのではないかという思いがきっかけとなって執筆することになったという
たしかに自分語りが疎まれる風潮が何年かまえに比べて強くなったよなとは思う。「それってあなたの感想ですよね?」なんていう言葉がもてはやされ、個人が催した感情を言葉にすれば「お気持ち」だなんて揶揄される。個人の経験や感想が忌避されるようになった。他人の気持ちを揶揄したり軽んじたりするような言葉や空気は本当に嫌いだ。人の持つ感情はそれまでの生育歴や対人関係、おかれている環境によって細かに異なるものであり、だからこそ価値があるものだ。ありきたりな表現だけど人間はロボットではないので。SNSなんて自分語りをするためのツールじゃないか
筆者も個人の感情や経験に取り合わないことで、マイノリティとされる人たちの声がかき消されていると指摘していた。もちろん学問の分野によっては客観性は大変重要であり、そういったものを否定するわけではないと明確に記載している。そりゃあ医療や科学の分野では数字の曖昧さは時に命となるものであるから当然だ
読んでいて納得することが多く頷きながら読み勧めていたけれど、なかでも客観性、すなわち数値にかたよった評価は数値によって人間を序列化するものであり、その数値はどれだけ社会で利益を上げる人間なのか評価される。人間が役に立つか、立たないかで切り分けられると書いてあった。社会の数値化が能力主義を生み出し、現代的な差別を生み出すとのことだった。例えば現在の障がい者の支援制度は就労がゴールになっているという。障がい者も就労し、納税することを求められる。経済的に役に立つかどうか、すなわち生産性という尺度で人間が測定される。そして生産性は他人と比較され、その比較は国や組織が行う。誰かと競っているように見えても、国や組織に品定めをされているのだというところに驚きと強い納得があった。障がい者の就労支援って、そういうことだよな…働いて国に税金を納めてほしいんだよなと思ったのだ
この本では客観性と数値を盲信することへの危惧を示し、私たち一人ひとりの生きづらさの背景に、客観性への過度な信頼があること。数値が過剰な力を持った世界において、人々が競争に追いやられること。その流れのなかで個別の経験の生々しさがが軽んじられがちになったこと。個人の語りを細かく聞くことで見えてくる経験や偶然性、必然性や多様さ、それらを捉えるための手段。そして誰もが取り残されることのない世界のかたちを考えることが記されている
いま形づくられている社会や制度がどれだけ大切にされるべき個人のことを抑圧しているか、その抑圧のしくみがこの本には書いてあった。当然のことだけれど個人が集まれば集団であり集団が大きくなればやがてはひとつの国になる
個人の幸福を無視して大勢の幸福は訪れない