凪良ゆう先生の新作「星を編む」やっと読めた。うう、やっぱり凪良先生の書く小説が好き過ぎる。本当に好き過ぎる。これから先、ただ一人の作家しか読めませんって言われたり、無人島にひとつだけ本を持っていけるとしたら凪良ゆう先生の本を選ぶ
凪良先生の文章は本当に適温の水を飲んだときみたいにするすると私の身体に染み込んでいって、感情を揺さぶられて、最後には少しの安心感を私に置いてってくれる
世間一般によしとされるような規範になんとなく馴染めないことを中学生ぐらいのときから自覚しているので、作中に出てくる人たちの行動や感情が私にとってはシェルターみたいな役割を担ってくれている。読んでいて、ああ、私は私の思う幸せを見つめててもいいんだ、追いかけていいんだと安心する
“血は水よりも濃く、つなげていくことの意味は大きい。その一方で、わたしたちのこの連帯をなんと呼べばいいのだろう。ぼんやりと、ゆるやかに、けれど確実につながっているわたしたちの『これ』を。よく言われるのは『疑似家族』だろう。けれどわたしたち自身のものを『疑似』と名づける、どんな権利が他人にあるのだろうか。”
今回読んだ「星を編む」の文章。これを読んでいて、私は複数の作品が思い出された
ひとつはよしながふみの男女逆転版「大奥」だ。これは男子のみが罹患する疫病が流行った結果、将軍職を女子が継ぐことになるというジェンダーSF作品の傑作だ。そのなかで女子である徳川家には男子が輿入れをすることになるのだが幕末の14代将軍、家茂のもとに公武合体として朝廷からきた和宮が実は女であった(和宮の異母妹)という場面がある。本来であればとんでもないことだが、それを隠すことを決め家茂と和宮は絆を深めていく。ここで家茂は和宮と養子に迎えた亀之助のことを家族だと言う。男と女でなかろうが、子どもの血がつながってなかろうが、互いに信頼できるのであれば家族だという
もうひとつは先日感想を書いた「ゴジラマイナスワン」。正確には作品というよりも、作品に対して見かけた感想だ。神木隆之介と浜辺美波と拾われてきた子で擬似家族をやっているところにゴジラが~という感想を見かけたことを思い出した
これらのことで考えるのは『擬似家族』という言葉は本来『家族』とはこういうものだろうという像(かたち)があってこそ生まれる言葉だということだ。この家族というのはきっと婚姻している男女が血の繋がった子どもをもうけてひとつの家で暮らすということなのだ。そこからどれかひとつでも欠けているなら、それは家族ではなく『疑似家族』なのである。家族とは似ている別の違う何かとされてしまう
こうなってくると『家族』とは、『家族』であることに必要なこととはなんだろうと思う
「星を編む」にある通り、他人の家族としてのあり方を『疑似』と言ってしまえる人たち。自分の思う家族と違うかたちの家族を認められない人たちはきっと現実の世界にもたくさんいて、気軽に『擬似家族』なんて言葉を貼り付ける
これだけ家族とはを投げかける作品がたくさんあるということは、いままで家族だと認められてきた家族の定義に疑問を持つ人、当てはまらない人が増えてきたという証左だと思う
私は血のつながりをあまり信じていないし、恋愛だけの結びつきじゃない家族もあったほうが世の中を生きていきやすくなるし、なんなら個人そのものを家族(世帯)とする制度になってほしい
いままで社会を割って整備していた制度や風潮に呼吸のしづらさを感じている人をすくいあげて紐を解く、凪良ゆう先生の作風だけれど今作もそれが冴えわたっていた