第三次世界大戦 vs サードサマーオブラブ

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『あなたのための短歌集』木下龍也 ナナクロ社

 読んでてまじやばいだろって、天才だろって。それでツイッターで検索したら「現代短歌の申し子」とかプロフィールに書いてあるし、『天才による凡人のための短歌教室』とかいう本も出してるし、自認していてウケた。天才と自認するマジ天才って、現代の日本人にもいたんだ〜!と興奮。この本は構成も上手くて、右に依頼人の依頼文があって、それを受けて送り返した短歌が左に載ってるから、その順序で読むとマジでうまいっ!!!みたいなウオッー!みたいな木下龍也の才能に打たれるんだけど、読む順序を逆にして依頼文を読まずに短歌だけ読んで依頼文を想像してみよう!とかやってみると、毎回そこまではくらわないというか、ダルいなみたいな。解釈しなきゃいけないの疲れるなみたいな。と同時に、歌だけで独立している強さというのはまた別なんだなというのも感じつつ、この本における依頼文って、説明文なんだろうか?解釈なんだろうか?いや、正解か。普段、読み物として短歌に触れる時って大抵逆で、なんかまず短歌があって、穂村弘とかが「これってこんな感じなんですかね?こんな事情があるとか想像しちゃいますよね」とか言って、解釈で広げていく。で、あーそういう歌なんだーとかそーゆー楽しみ方なんだーとか思ってたんだけど、この本の方が断然なんか歌を作ってる才能の鋭さがブッササッてくるというか、依頼された短歌集ってこの構成がまず発明だよ。普段短歌に触れてないタン感受性の低い俺でもガンガンくるのはその受け方の見事さ、フリースタイルの鋭さ、その曲芸っぽさだけを楽しめるからだろうか。まあそれは解釈をしない、あらかじめ正解を与えられた甘えた楽しみかたでもあるんだけど、それにしてもそう来るかって、上手さの連続!けどなんか3%くらい恐ろしくドス黒い悪意返しみたいな短歌もあるんだよな。この本、依頼文とのペアがいいっていう短歌と、短歌だけでいいっていう短歌があるけど、読んでてエモくなってくるのは右ページの様々なひとの個人的な依頼文、絵馬のような、時間と共に押し流されやがて消えていってしまうはずの望みが、木下龍也によって短歌にされた途端に、まるで宇宙に神に向かって放たれて、永遠を獲得しているように感じられるところで、その力は57577という型によって手に入れられている。その型に収まることで、詩になって、それは永遠の命を持って個を超えて飛んでいくと確信できる。それはいま我々が万葉集や、海外の古代の詩人を読んでいるからで、読んで「ええわ〜」とか思ってるからで、古代の歌にええわ〜と感動した自分の経験がそのまま、もしいい歌を作れたなら、その声は死を超えて永遠に飛び続けるんだなぁっていう確信につながっている。芸術ってそういうものなんだ〜と思った。

 それで読み終わると表紙にはこの本のための特別依頼が載っててそれは「私は十八歳から詩を書き始めていつの間にか九十歳になってしまいました…という人間を面白がらせる短歌が読みたいのです。」という谷川俊太郎の依頼で、こわっ!圧やばっ!とか思いつつ、っていうかそれ要は「おもしろい歌を詠んで」ってことじゃん何も言ってね〜!とか思いつつ木下龍也の応えた歌は「言葉ってくすぐったいね靴下を脱いで芝生を歩くみたいに」というもので、へ〜くらいの感想を持ちつつこの歌集を読みはじめたんだけど、いま改めて見てみると、裸足で芝生を歩いてきたってとこがちゃんと「十八歳から詩を書き始めていつの間にか九十歳になってしまいました」の部分に対応してる。谷川俊太郎さんあなた裸足で芝生の上を歩いてみたら面白くて、そのまま80年以上も歩き続けちゃったんですネ!みたいになってる。チクチクする!でも裸足で芝生歩くのって皮膚でダイレクトに世界を感じられていいよね、けど人類は文明を得て靴を発明して裸足ではできない長距離を歩いたり仕事したりすることを可能にしたんだよね、だから裸足で歩くのはもはや日常的にやることじゃないよね、でもそれを忘れたら人間の真実から離れちゃうよね、という感じとかも伝わってくる。木下龍也って依頼文すげー丁寧に読んでるじゃん、天才のくせに驕らず依頼に真摯に応えてるじゃん!とか思って、それに比べて「要は『おもしろい歌を詠んで』ってことでしょ?俊太郎なんも言ってね〜!」などと分かった気でいた俺のガサツさ?!愚かさ!?「要は」とか言って大事な部分を捨て去っていた俺、タイパとか言って流行に呑まれてる奴みたいで恥ずかし〜!and それに今や気付ける俺のタン感受性はいまやまさに very uped と自己肯定感がupしたのだった。ありがとう木下龍也〜!

080 夜用の鍵、とささやく少女から少年の手に郵便切手 (『あなたのための短歌集』木下龍也 ナナクロ社)