曲コラム「Nomozaki / videotapemusic、角銅 真実」

anatomiya
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もうすぐ夏…。夏が切ないのって自分だけだろうか、子どもの頃の夏には切なさなんてなかったような。けれど大人はなんか夏にセンチメントを感じてるようだった。夏に公開される映画版ドラえもんを観ると、それは切なかった。映画版のスネ夫やジャイアンは土曜の夕方と違ってなんか真摯だし、異星人とか、古代人とか、ストーリの中に出会いがあり、別れがあり、流れるエンドロールが、いますごした2時間には初めと終わりがあって、土曜のTVの中で永久に続いていく時間とは違うのだとこっそり告げていた。そもそも夏休みというのは「映画版 週末」みたいなものだった。それは巨大な自分の時間で、友達もいつもとなんか違って、自由がいつもより大きくて、冒険ができて、そのくせやっぱりついには終わってしまう…。夏の切なさはそうやって、子供の心に芽を出しはじめるのかもしれない。セミは夏に生のぶちアガりとおわりを一幕で演じる。夏は東京大空襲があって、広島と長崎に原爆が投下されて、太平洋戦争が終わる季節。江戸時代の人や、外国人は夏に切なさを感じない?今だけを生き、終わりを気にせずいれば夏に切なさを感じない?『戦場のメリークリスマス』や『異人たちとの夏』は切ない映画。いつか夏に切なさを感じなくなったら、それは人生のゴール?夏的にはそんなに思い入れされても重いんですけど?結局、このうえもなく今を生きていると実感していれば、またはゆったりと人生に充足していれば、夏は切なくないのだという気がする。それとも生こそが、無から生まれてきた魂の夏休みみたいなものだから、夏にその終わりを連想して切なくなるのは避けられないのかもしれない。入道雲をその年はじめて見るたびに、この気持ちをなんで今まで忘れてたんだろうと毎年驚く。それはいま目の前に真夏があるのに、自分は真夏とともにあるのに、それといつか別れなければいけないということを知っている気持ち。飛行機で夏を追ってサーフィンし続ける映画『エンドレス・サマー』の登場人物は夏の切なさを感じないだろうか。でもいつか旅は終わって、やっぱり夏に置いて行かれてしまう瞬間がやってくるはず。秋や冬や春には感じない、夏だけの気持ち。でもそんなの負け犬の感傷だって気もする。だってビヨンセは夏に切なくなったりしないはず。でもモハメド・アリは夏に切なさを感じていた気がする。自分は冷やし中華もスイカも好きじゃない。蚊取り線香の匂いは好き。夏って実は3週間くらいしかないのかもしれない。3週間と2週間と1週間の旅行をしたことがある。1週間だと、名所を巡ったりやりたいことだけで終わる。2週間あると、レジの人と机の上のクモを「かわいいですね」とか話しながら、街に自分の足が着いたなって感触を感じる時間が生まれる。3週間あると、その街からどこかに小旅行に行ってまた戻ってきたときにほっとしてる自分に気づく。夏ってちょうど身体がそこに住みはじめた頃に終わっちゃうから切ないのかも。この世って夏で、身体って入道雲なのかもしれない。