会社員を辞めて1年、価値観や交友関係が色々変わった話

anboo
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会社員を辞めて今日でちょうど1年経ったので、この1年間を振り返ってみる。だいたいこういう自分語り的なものは下書きに入れたまま放置するのだけど、今回は「しずかなインターネット」のコンセプトにかこつけてそっと置いておく。

きっかけ

前職では組織・カルチャーまわりで色々あり、自分としては限界ギリギリまで向き合った末に退職を選んだ。特に診断は受けてないけど、今思うと辞める暫く前から軽いうつ状態だったのかもしれない。慢性的な頭痛や身体の節々の痛みで休日は動けなくて、なんとかサウナに入って一時的に自律神経を整えて、無理やり身体を動かすみたいな日々を長いこと過ごしていた。

そんなこともあり当分会社に所属する気はなかったので、次に打ち込めるテーマが見つかるまでは暫くゆっくりすることにした。とはいえこれまでずっと24/365で仕事してきた人間に急な自由な時間ができても特にすることはなく、とりあえず心身の健康を取り戻すべく一人で粛々と筋トレと食事管理に励んでいた。

そんな頃、大学卒業時から同棲していたパートナーとすれ違いが起き出し、関係が悪化した。仕事に打ち込んでいたこれまでなら気に止めなかったようなことも、暇な時間が増えるとぐるぐると考えてしまう。相手への期待値が上がり、裏切られ失望して、傷つき傷つけて、の悪循環。

で結局別れて、同棲していた家も出て、一時的に実家に戻った。すべて自分で選んだ選択とはいえ、30歳を目前にして、仕事も恋人も家も、飼っていた猫も失うことになるとは我ながらびっくりした。まあ根が楽観的なので「なんか色々リセットされたし、これから新しい人生だな〜」みたいな気持ちではあったけど。

で気づきとしては、あまりにも仕事に依存しすぎていたということ。そして仕事のウェイトが大きいがゆえにパートナーに依存せずにいられただけで、その柱が崩れると恋愛関係も健全な状態じゃなくなってしまうということ。ということで、仕事や恋愛以外のことを色々やってみることにした。

具体的に言うと、友だちを増やすこと・趣味を増やすこと・消費にお金を使うこと、あたり。

友だちを増やすこと

この1年で知り合った人には信じてもらえない気がするけど、これまでは知らない人と会ったり大勢の集まりに行くのがすごく苦手で、人と会うのは月に1度あるかないか。仕事の時間が何より大切だったので、基本的に人付き合いを損得勘定で考えていたし、「相手の時間をもらうからには自分も何か提供しなきゃ」という強迫観念で誰と会うにもめちゃくちゃ疲れた。

ただこの1年は誘われたら断らないをマイルールとして色んな会に出るうちに、指数関数的に友だちの数や呼ばれる会の数が増えていって、今は週の半分以上は何かしらのイベントがある。人付き合いってもっとラフで適当でいいんだ、と気づけたこともあり、不思議と今は人と会うのが全く苦じゃないし楽しい。自分をかなり内向的な人間だと思いこんでいたので、こんな一面もあるんだなと驚きである。

最初に参加し始めたのがサウナ系イベントだったこともあって、初対面の人とリラックスした状態で話す訓練が自然とできたのがラッキーだった気がする。冷静に考えると、すっぴん半裸の汗だくで、薄暗い密室の中ではじめましてするって異様過ぎて面白いよね。

趣味を増やすこと

人との出会いが増えたことにより、色んな趣味を持つ人と話すことが増えた。何かの会に誘われたらとりあえず行ってみて、その人が感じる魅力を体感してみる。それによって、自分の好きや嫌いの解像度が上がり、好きの幅も広がっていく感じ。

例えば半年前くらいからワインにハマって、今では家にワインセラーと何十本ものワインがあり、毎日のように晩酌を楽しむまでになった。来月からテイスティング講座も始まる。コロナ禍の数年間は全くお酒を飲まなかったので、これも大きな変化である。

これまでは趣味=仕事で、休日も仕事するか仕事のインプットするかゴロゴロするかくらいだったので、時間の使い方のバリエーションが増えて世界が広がった感じがして楽しい。あと頭を使うこと・身体を使うこと、左脳を使うこと・右脳を使うこと、それぞれバランスよく使ってあげた方がコンディションが良くなる実感があったので、それを意識している。

消費にお金を使うこと

JICAや国連を志して大学に進んで、卒論のテーマに「資本主義の弊害と限界について」を選んだような人間なので、心の何処かでずっと消費に対して嫌悪感があった。

ただ、ここまで多くの人の心を掴んでいるものを理解しないのは勿体ないなと思い、この1年は意識的に消費をしてみた。例えば、いいものに触れてみようということでハイブランドで数百万くらい使った。それまで一切そういう物に興味がなかった私からすると信じられない変化である。結果的に、ものの品質やディティールについて解像度が上がり、新しい世界が垣間見れて楽しかった。

今回気づいたことは、無意識の節約志向により自分の世界を狭く閉じていたんだなということ。私は知的好奇心は旺盛だが物欲は全くない人間だという自己認識をしていて、本や映像などのコンテンツ消費で満ち足りていると思っていたのだけど、やはり体験が伴っていない弱さはある。思い切って色々なモノ/コトにお金を使い、体験することにより、この1年間はとても刺激的なものになった。

まとめ

そんな感じで、とにかく色々やってみて、価値観や交友関係などたくさんのことが変わった。やっぱり新しい体験をして新しい刺激を受け取ることは楽しい。ここ最近は、色々な刺激を受けることで脳や精神が凝り固まらずに、自由で柔軟で元気な状態で常にいられているような気がする。

この年になって「変わること」に対して成功体験が積めたのも大きい。自分に対しても他者に対しても、余計な固定観念に囚われず、常に変わりうるものとして寛容になれた気がする。今の状態も一時的なもので、これからまたどんどん変わっていくんだろうなという確信めいたものがある。

でこの1年間の変化を、抽象化して解釈するとどういう説明ができるかなと考えたのだけど、『暇と退屈の倫理学』の概念を用いてまとめるのが一番収まりが良いかもしれない。

著者の國分功一郎さんは暇と退屈を以下のように分けて定義し、

  • 暇: 単純に何もする必要がない時間(客観的条件)

  • 退屈: 感情や気分(主観的状態)

『形而上学の根本諸概念』で退屈について論じたハイデッガーについてこう指摘する。

ハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。(中略)大変残念なことに、ハイデッガーがそれらの楽しむための訓練を受けていなかったからである。

要するに退屈は暇のせいではなく、物を受け取り楽しむ訓練ができていないせいであると。しっかりと物を受け取り満ち足りることが贅沢であり、気晴らしを楽しむことであり、それは人間であることを楽しむことだと、著者は言っている。(本当は物の消費と浪費の違いとか、環世界の獲得と破壊とか色々あるんだけど、ここでは割愛)

4象限にすると、この1年は要するに退職によって第4象限から第2象限にいってしまった私が、なんとか第1象限へ移る努力をした年だったかなと。

最近ちょっと30代を懸けてまた頑張りたいなということが見え始めたので、また数カ月後にはほとんどの時間を仕事に費やしているかもしれないんだけど、この1年間で「暇を生きる術を持つ状態」に入門できたのは大きな財産だった。

以前知人が「ライフワークバランスというと直線でライフN%ワークM%というイメージをしがちだけど、行ったり来たりの波の中でトータルでバランスが取れれば良いよね」と言っていて、しっくり来たのを覚えている。

これからの人生は、その時々で一番自分が心地よいと思う比重で、第1象限と第4象限を行ったり来たりしながら生きていきたいな、と思ったりした。

引用文献