唯一無二を喪う、ということ。
10/24にあっちゃんの訃報を知ってから、最初の三ヶ月くらいは気を抜くと勝手に泣けてきた。曲も、映像も、不思議なくらい抵抗感はなく見られるのに、ただ泣ける。年末くらいまでは号泣に近い状況だったんじゃないかな。
武道館が終わって、年が改まって、あ、私、感覚がおかしくなってるなって自覚した。表面的には変わりなく笑って、当たり前に仕事に行って、それなりに楽しいこともありつつ生活を営んでるのに、感情がついてこない。三歩くらい下がって自分を見てる感じ。
映像を見ればやっぱり泣くこともある。噴き出すような、爆発するような、そういう泣き方じゃなくなった。
二次創作がメインではあるけど、何十年も「小説」を書いてきた。毎日何かしら書くのが当たり前で、書いてないと落ち着かなかった。それなのに、書こうとしても手が動かない。無理矢理動かして「それらしい」ものは書けても、自分の文章じゃないみたいな気がする。事実、今読んでも欠けてる。面白いとか面白くない、巧拙じゃなくて、そこに「私」がいない。
あ、駄目なんだな。三月くらいに、ぼんやり思った。
小説を書くという行為は、たぶん私にとって感情そのものと密接してる。あっちゃんが亡くなって、感情の一部分──もしかしたら大部分が一緒に死んじゃったのかもしれない。
それでもいいかな。今はそう思ってる。
一緒に連れていってもらったなら、それでいいや。またちょっとずつ、積み重ねていくしかない。私という人間がいつ死ぬかは分からない。それまでに一回死んで、それがあっちゃんと一緒なら、それまでの人生ぜんぶ連れていってもらったのなら、羨ましい人生だ。
小説、書きたいなあ。空っぽの人間が足掻いて藻掻いて、何かしら残せるなら、それはそれでたぶんちょっとは面白いものになると思うんだ。