書かないほうがよっぽど精神的には平和、っていう気もする。まあそれでも書いちゃうんだけど。
BUCK-TICKの映像を見ると、やっぱり泣ける。ただ、その涙が、自分にとって惰性とか、反射的なものになってしまうのが怖い。
「あっちゃんがもうこの世の中にいないことが悲しい」「今後『五人』で揃ってステージに立っている新しい光景が見られないのが辛い」。言語化しながら、悼みながら泣くのは理性が働いてる状態だと思う。無意識のあいだに、気がついたら泣いてる、っていうのは、…少なくとも私自身は冷静じゃないし、現実逃避してるみたいで、あんまりいい傾向じゃないなあと思う。
正直、『四人』になっても、いい音楽は作ってくれるんじゃないかなあっていう信頼はある。誰かひとりに依存して三十五年もやってきたバンドじゃないでしょう。一人ひとりが独立して、過分に自意識過剰になることなく、個々の足場がしっかりしてて、自負と矜持がある。その上で絶対的な『五人』が成り立ってきた。奇跡的なバンドだと思う。そういう『五人』を愛してる。
ただ、その先の『四人』での音楽を、個人的に好きになれるかどうかっていうのは、また別問題だよねっていうのも、ぼんやり感じてる。応援はする。でも、義理で「好き」って云うのはまた違うでしょ? っていう。そんな同情とか、プロに対して失礼じゃないかな。
背負い続けて、一緒にいてくれるとは思う。ずっと『五人』だとは思う。
でも、っていう。
「好きにやってくれ」って言葉になっちゃうけど、好きにやってもらって、その先は、受け止める側が選択する自由がある。一回離れても、また「好き」になってもいい。簡単なことじゃないけど。ぜんっぜん、簡単じゃないけど。
自由でいてくれ。好きにしてくれ。好きでいさせて欲しいとは思わない。好きになったら、勝手に好きでいるから。現実を突きつけられても、選択出来るくらい、後悔しないくらい、こっちも好きな場所に立っていたい。