無響室の中で気が付く私という存在について

anode
·

 無響室という部屋がある。部屋の外から入って来る音、部屋の中で反響する音を出来るだけ吸い取って、音の無い空間を作り出したもの。おまけに分厚い壁で出来ているから中の温度も一定で、少しの空気の対流もなく、また光も無い。その空間の中に入ると、目や耳、肌感覚なんかがほとんど効かなくなって、極端に情報量の低い世界に突入することになる。

 私は無響室が好きだ。よく無響室に長時間居ると気が狂うなんて言われるけれど、私としてはこの情報量の低い世界の居心地は良いと感じる。その中でふと次のようなことを考えたことがある。

 世界は認識によって形作られている。私という存在が本当にあるのか、あるならばどこからどこまでが私で、どこから先が私ではないのか、これを絶えず目や耳や肌感覚で認識して確認しながら生きているという意味だ。境界線を引きながら、世界と私を区別している。また他人との境目も同じく区別している。私という存在は誰かに認識してもらうからこそ紛れもなく私でいられる。誰からも認識されなくなったとき、私は世界から消えるのである。

 これが無響室にいるとまるで自分と世界との境目が無くなったかのような感覚になる。五感が効かないのだから当然だ。このときおそらく私は本当に世界と溶け合って区別が無くなっているのだと思う。何も認識出来ないし、何からも認識されないのだから、私という存在はあらゆる関係性から切り離されて、内なる宇宙のその中にどこまでも広がってゆくだけなのである。

 つまり、何も感じられないからこそ、私という存在が何なのかを実感として感じることが出来る場所なのである。