書く理由について

月の子
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性暴力についての話があります

性的いたずらをされたことがある。

小学校低学年の頃、通学途中のことだった。身体に触られた記憶はないが、下着を下ろされた。帰宅して母親の姿を見て、これは誰にも言ってはいけないことなんだ、と思った。初めての婦人科検診で例の独特の形の椅子に下着を脱いだ状態で座らされて、カーテン越しに足を触られたのと痛みにパニックになり女医に叱られた後、ふと当時のことを思い出したのは、それからずっと後のことだ。

この事件の影響で男性が苦手になったかどうか、はわからない。 小学校低学年から同年代の男の子が苦手だったけれど、事件が原因なら年上の男性が怖くなるのでは? と思う。 その一方で例えば「#MeToo」の運動やその中で発せられた告発について共感したり動揺したりしていたのは、自分のアイデンティティにとってこの経験が大きなものを占めているからではないか、とも思う。

いずれにせよ、性別や年齢問わず、他人から触られるのは苦手な子どもだったのは確かだ。 背の順に並んで後ろの人から肩に手を置かれるとか、運動会で肩を組むなどといった行為がとても苦手だった。美容院での美容師からの接触やなど、肩周りや胸周り、背中を触られる際にいつも全身を固くしていた。中学生になって仲良くなった同性の友人達は、しばしば笑いながら抱きついてきてありすることがあったので、それで段々と慣れていったように思う。今はもう、美容院でのマッサージなどで緊張することはない。 同年代の男性と話すのも苦手だったが、高校で男女半々の部活に参加することで、緊張せず話ができる男性も少しずつ増えていった。

藤崎真緒の「瞳・元気」という漫画がある。 今ネットで検索したら次世代作について言及したこちらの記事がトップに出てきたけれど、併せて表示されたリード文にげんなりした。

1990年代、高校生を主人公に性と愛を真正面から描き衝撃と感動を呼んだ作品があるのをご存じだろうか。その名も『瞳・元気 KINGDOM』

https://ddnavi.com/news/341484/a/

わたしはこの漫画が大嫌いだ。

この漫画の、親戚の男性に強姦された過去を持つヒロインが色々あって同じ高校の男の子と同居することになり、これまた色々あって己の抱えた過去を彼にぶちまけ、心惹かれていく……という怒涛の展開を一巻目で読んだ時に愕然としながら思ったことは忘れられない。

わたしが生きるこの世界では、レイプされた過去を持つ人間でさえ、結婚しないこと、恋愛しないことを認められはしないのか。

強姦等の被害を受けたのには女性にも落ち度が……といった酷い言説をヒロインの言葉を借りて否定したあの漫画は確かに、当時にしては画期的だったのだろうと思う。 けれどその頃からわたしは、自分はおそらく結婚しないだろう人間だと思っていて、それゆえに恋愛や結婚をしないことの、誰にも反論できない理由が欲しかった。

アセクシャル、アロマンティック、クエスチョニングといった概念を知ったのはインターネットからだ。アセクシャルの端的な説明として、恋愛感情がわからない、としばしば言われる。

これはもしかしたら恋愛(片思い)かも知れない、と思ったことが、高校生の時に一度だけある。 だが、実在の第三者に対する性的魅力とか性的欲求といったものをわたしは体験したことがないと思う。 ひとつ覚えているのは、これは恋愛ではないか、と思った時、わたしは自分にもそういう感情が持てるのだなと心底ほっとしたということだ。

わたしはアセクシャルなのか、ノンセクシャルなのか、それとも別のなにかなのか。 性嫌悪なのか、性暴力によるトラウマなのか。 生まれつきのもので絶対なのか、変わるものなのか。 ゲームと違って、現実世界にステータス画面は存在しない。

……試しに誰かと付き合ってみたらわかるよ、いい人がいるかもよという悪魔の証明から、一体どうやったら逃れられるのか。

性的指向を診断するオンライン診断をしてみると、わたしはシスジェンダーの女性自認、かつ、他者に対して性的魅力を感じない、性的行為に嫌悪感がある、しかしロマンティックなシチュエーションが理解できないわけではない、という観点から、ヘテロよりのアセクシャルと判定される。

外堀を埋めていけばその結論が最も妥当だと思っても、わたしはわたし以外の視界を知らず、それが他者とどれだけ違うのか、わからない。 言葉や概念は便利だ。けれど、アセクシャルという言葉と出会うことによってわたしはほっとしたり納得したりといった経験を得ることができなかった。

ところがこんな自分がかつて、婚活をしようと魔が差したように思ったことがある。 理由は、たぶんよくある話だと思いたいのだが、仕事がハードだったからだった。

婚活する、結婚相談所に行くと突如言い出した娘に、両親はむしろ困惑していたと思う。二人で話している時、いい人はいないの、これからどうしていきたいとかそういうのはないのとしばしば問いかけ、追い詰めてきた母はあなたはそういう選択はしないタイプだと思っていたと言いだし、それに対して、まあ高価な時計やバッグでも買ったと思って……と取りなしたのは父だった。

きっと両親は喜ぶだろう、どこかでそう思っていたわたしは拍子抜けした。意外とこの人達わかってるんだなと思ったし、わたしの決定に口を挟むなとも思った。 入会のための書類を作成し、プロフィール写真を撮りながら、しかしわたしは当初の勢いとは裏腹に、どんどん恐ろしくなっていった。 そもそも昔は見合い結婚が主流だった、恋愛をしなくとも気が合う人と生活できればいいじゃないか、そういうやり方だって選択できるんじゃないのか……そんな気持ちでの婚活宣言だった。だけどわたしはいつ、自分が性的なふれあいに恐怖を覚えるのだと相手に伝えればいいのだろう? もしかしてそんなことは一言も伝えられないまま、そうした行為をしなければいけないような状況になってしまうのではないか?

男性と話すのが苦手だと言ったわたしに、相談所スタッフは優しそうな男性を紹介してくれた。自己紹介をしたりすることはできた。相手を前にして言葉が出ないとか、そういうことはなかった。けれどまた会いましょう、ということにはならなかった。それはそうだ、と自分でも思った。わたしはずっと、性的な行為への恐怖を抱えながら相手と話していた。

スタッフからのお見合いの予定調整の連絡が苦痛になり、異動もあって仕事がまた忙しくなったのを理由に一年ほどで逃げるように相談所を退会した。もったいない、と母親に言われた。

数年後、転職した。 新しい職場にも慣れてきてほっとした頃、母親から結婚について話を振られるようになった。 結婚相談所に言って自分には無理だとつくづくわかったのだと言っても、あなたは自分に自信がないだけだと母は繰り返した。仕事も続けているし美人だし、絶対いい人がいるはずなのだと。だから高校の同窓会に行ってみてはどうか、いい人がいるかも知れない。年賀状をくれたこの人はどういう関係なんだ、会ってみてはどうか。そういえば知り合いからの紹介があって……。

自分は性的なことに興味がないし、よくわからない。一度思い切ってそう言ってみたが、困惑したような顔をされた。 そんなやり取りがくりかえし、くりかえし。

そうしてある日、親向けの結婚相談所に入るから書類にサインするようにと言われた。

結婚しない子を持つ親向けの結婚相談所というのがあって電話で勧誘され、入ることにしたのだという。入所には自分だけでなく本人、つまりわたしの同意署名もいるのだと書類を差し出された。 堂々巡りの言い合いは続き、結局わたしは根負けして署名した。耐えろ、とわたしは思った。その内きっと母も諦める。

だけどまた「あれ」をやるのか。 何人もの男性と出会い、自分が性的な接触をできるかどうか、己のセクシャリティは何なのか、いい人に合えばという悪魔の証明にどうやって反論すればいいか考え続ける、「あれ」が。

考えたくない。 わたしはわたしが「何か」なんて、考えたくない。 わたしは自分がこういう者ですなんて宣言も定義付けもしたくない。何もしたくない。 わたしはただ、この世の多くの人と同じように、自分のセクシャリティが何かとか、幼い頃のわたしになにがあったかとか、そんなこと何も考えず生きていたいだけだ。

食事が取れなくなった。えづくようになった。 入会を取り消してください。 朝食の席でわたしがそう言ったのは、書類にサインしてから数日経過してからのことだった。まだクーリングオフの期間中のはずだから大丈夫、そう思ったのを覚えている。無理だ、と母は即答した。もうお金は入金したのだから、と。

やがて仕事帰り、商店街に捨てられた段ボールを拾っては帰宅するようになった。

婚活をしたくないので家を出るというわたしの宣言にも、毎日段ボールを持って帰宅することにも、母は冷ややかな視線を向けていた。食事のたびにえづき続けていていたことにも。無理やり食事を飲み込もうにも食べる量は減り、体調も悪化した。それでもどうにかごまかせる、仕事の少ない職場に転職していたのは幸いだった。 なんでこんなことになってしまったんだろう。 物件を見て回った後ファミレスで休憩しながら、友人にそういったのを覚えている。

自分が間違えたからだ。ずっと。最初から。

なんでそんなに嫌がるの、と母はわたしに訊いたのだろうか。 ともあれそれは出勤先からそのまま一人旅に出る日の朝、出勤しようとするタイミングでのことだった。 職場には年一で長期休暇を取得する決まりがあり、随分前にわたしは一人旅の予定を組んでいた。その頃には引っ越しについて、色々なことに目処がついていたと思う。

無理なものは無理だ、とわたしは繰り返したのだと思う。具体的な言葉は覚えていない。そして。

かつてわたしは性暴力の被害に遭ったのだ、と。

だから今も性的なことは怖いし婚活も無理なのだと告げた。 それを誰かに言ったのは初めてのことだった。

初めて聞いた、とか、どうして、とか。ごめんなさい、とか、そんなことを言われた気がする。 ともあれ出勤時間は迫っていて、わたしは家を出た。結局、その日は一日中頭が回らなかった。もうずっと体調が悪かったけれど、その日は特にふらふらしていた。

言葉にすると、口にすると、本当のことになってしまう。 あれは本当のことだったと、自ら認めてしまうことになる。だから今、わたしはこんなにダメージを受けているんだと思った。

夜、宿泊先のホテルのベッドの中から、長いメールを父に送った。 父から母に言ってわたしの婚活を止めさせて欲しい、そんな内容だった。母とやり取りをするのはもう限界だった。 しばらく経ってから父から返信が来た。色々あなたが悩んでいるのはわかったけれど、でもまあ、実際に婚活してみたらいい人がいるかも知れないんだから、もっと気楽に考えて……そんな内容だったと思う。

ああ、父もか。父もなのか。

ベッドから起き上がり、暗闇の中でわたしは返信メールを打った。あまり内容を覚えていないが、当事者であるわたしが辛いんだと言っているんだからそれを優先してほしいとか、恐らくそんな内容を送ったのだと思う。 翌朝、起きて携帯を見ると、なぜか母からメールが来ていた。恐る恐る開いたメールには謝罪の文字が見えた。 要するに、わたしからのメールを父は自分の返信と合わせ母にも転送していたのだった。わたしのメールとそれに対する父の返信を読んだ母は(その直前に聞かされたわたしの事情を踏まえて)なんてとんでもない内容の返信を父は送ってしまったんだと血相を変えたらしい。 相談所は退会する、とメールには書かれていた。旅行から無事に返ってくるのを待っている、と。 それでようやく、力が抜けた。

東京から帰ったわたしは帰宅する前に友人と会い、旅先で父にメールしたこと、けれどもこちらの切実さを理解してもらえなかったこと、それでも最終的に母が折れたことなどを話した。

わたしは、性的なことが怖いから。

事の経緯を話すなかで意を決しそう口にしようとして、けれど言葉はなかなか音にならなかった。

うん、そうなんだろうなーと思ってた。

わたしの言葉に友人はあっさりとそう言った。わたしのtweetには性的な事柄が全くなかったから、と。

旅から帰り、一人暮らしを始めても、母との関係は改善しなかった。 会うのはいつも恐ろしくて苦痛だったし、たった数分でも会って話すと腰痛になった。LINEで「優しい母親」を装うようなメッセージが頻繁に来るのも嫌だった。

いつ戻るのか、と聞かれた。結婚相談所は退会したんだからもうあなたが一人暮らしをする理由はないのではないか、とも。オンラインカウンセリングを受けたり、『毒になる親』(スーザン・フォワード)を読んだりしたのは確かこの頃だ。

一年後、母に長いメールを書いた。あなたのことをわたしは許していない、だから実家に戻る気も無い。結婚相談所を退会したとはいえ、当時の貴方の対応は毎日えづいていたわたしに辛く当たるようなとても酷いものだったのだからそれは当然のことだと思う……そんな内容だった。返信は、すぐ来た。相談所のことはあなたのためを思っての行動だった、婚活もあなたならきっと乗り越えてくれると思っていた、だってあなたはずっと頭の良い子だったから……そんな内容だった。 乗り越えるってなんだ、あなたは何もわかってない。返信でわたしは言い返し、返信不要ですと末尾に付記した。 その更に一年後、今度は母からメールが来た。自分が毒親だったのだとようやく自覚した、反省している……そんなメールだった。 そんなこと言われてもねえ。 今更だし、信じられないよね。

ステーションホテルで語り合った友人に愚痴りながらご飯を食べた。

それから数年後。 コロナが流行りだし、リモートワークの切り替えや生活変化、感染への不安などからわたしは精神のバランスを崩した。休職し、家を引き払い、実家からリワーク施設に通った。 やがて復職したが、今度はコロナに感染した。 軽症ではあったが数カ月後には後遺症の悪化でほぼ寝たきりになり、病休を取得。幸い症状は回復して、今に至る。

わたしが一人暮らしをしたのは五年にも満たなかった。

わたしは自立したのだろうか。 わたしの問題は「解決」したのだろうか。

セクシャリティについて、今でも話せる人は少ない。 わたしはわたしが「何」か、今でも断言することができないし、したくない。

だけど嫌だ、ということは以前よりできるようになったと思う。

怒ることをようやく、自分に許すことにした。

そして自分には致命的な欠陥、「問題」があってそれは直さなければならない、という思考は消えてはいないものの、以前よりは随分薄くなってきたと思う。そう、なにはともあれ、わたしはこの「わたし」で人生をやっていくしかないのだ。

だから今までよりもたくさん書くことにした。わたしについて。