人間世界ランキングとかないんだろうか。そう思ったことがある。
いつでも自分に自信が無い。他者が自分より美しく素敵な存在に見えて、自分がどんなに頑張ったところで到底それにはなれない気がしてくる。もちろん善い人ではありたいけど、自分の中に当たり前に悪意はいくらでも存在するし、果たして何をしたら善い人なのか、それを自分の本心を欺いて精神を操作して実行したところで善い人であると言えるのかしら、他者に見る人間としての美しさというものを取得できる器を自分はそもそも持ち合わせているのだろうか(無かったらと思うと泣いてしまいそうな程恐ろしい)…と考えてしまう。全人類対象のランキングが存在して人間の中で自分がどんくらいのレベルの人間なのか、知れたら傾向と対策とか練れて楽なんじゃないだろうか。
まあそうは言っても当然そんなランキングはどこにも無いし、算出する術も無い(人間の手が介入した時点で純粋なものではないだろうし)。では一体、自分はどこの何と比較してどうしてこんなにも自信が無いのだろうか?
その理由は様々あれど、今の自分が実行可能な対策としては、自分にとって恥ずかしかったり後ろめたくない、"ダサくない"自分を目指せばいいんじゃないか、という考えに数年前至った。自分の中で「ダサい」という言葉は「懸命」や「真摯」の真逆に位置しているので、「自分の心に誠実に生きる」ことが今のところ一番「ダサくない」に近い場所に行けるやり方かもな、という方向性も決まり、それが結果的に、理想とする"かっこいい"人間像を追い求めることにも繋がっているような気がしているので、なかなか悪くない作戦なのではないかと思って、今現在もその作戦を継続している。作戦を遂行した上で足りない自信は経験と知識で補強していくしかないし、それでも足りない部分は信頼出来る他者からの客観的な評価で補完すればいい。
大人ったって、自分で何かを得ようとしたり精査しようとしたりしなければただの時間だけが経過した無知な子供のままだ。20年経てば勝手に思考や言動が自動アップデートされてガラリと大人になれるわけじゃない。ちゃんと自分で大人の自分を形成する努力をできる人だけが大人になっていけるんだろうと思う。とはいえ努力しなければ得られないものだからと自分につらく当たるのは違うような気がした。自分に優しくたっていいじゃないか。もちろん優しくするのと甘やかすのは違うということを見失ってはいけないけれど、自分という人間の持ち合わせる"人間力"みたいなものに大して自信も無いくせに自分に厳しくして勝手に余裕を無くして他の人に優しくすることができないくらいなら、自分にも優しく人にも優しくしている方がダサくないし余程ハッピーでいられる。外部データを取得し照らし合わせながら、自分で自分という人間の内部データをブラッシュアップして更新し続ける、という作業の継続を疎かにせずに少しずつでもできたら、自分という人間はまだ幾らでも良い方向に変化することができるはずだ。常に今その瞬間の自分のできることとやりたいことの折り合いが一番良いところを選び取る意識を持ち、偽りなく健やかで居られる状況の実現を画策する。人生そううまくはいかないから実際には目指した場所を進むことが叶わなくても、その選択コマンドを自身の中で表示できたならそれで結構上等だと思うのだ。
人間世界ランキングが無いなら、俺世界ランキングを開催するしかない。歴代の自分と今の自分をランク付けする。負けず嫌いだから過去の自分には負けたくない。俺世界ランキング首位を守れるように頑張らねば。
そんなことを考えていたらある時、推しが「答えを求める人生はよくないんです。人生は問いなんです。問い続けることで走り続けるというのはやっぱり何かいいなと思って」と言っていて、ああ、やってることは間違ってなかったんだなあ、と思えた。なんだかんだ言ったって結局、物事の捉え方や考え方をリスペクトしている存在の中にあるものが、自分の中にあるものと響き合った時が、情けない自分を一番肯定できるってもんだよな。