言葉で残すということ

bluethought
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何日か前に、「もし自身の創作的な表現ツールとして"絵"か"言葉"のどちらかしか選べないとしたら」と考えた時に、それならば自分はきっと"言葉"を選んでしまうんだろうなあと思った。

絵というものが本当に大好きだ。かなり愛しているし自分という人格の軸たる要素に確実に含まれているものだと断言できる。けれど、仮にそういった状況に追い込まれたとして、(奪われた場合はどうかわからないが)自分からあっさり手放すことはたぶん容易いのだ。愛ゆえに。手放してもそれを完全に自分の中から消すことはもう決して不可能だろうなというくらいまでの、絵に対する謎の信頼と自負がある。さながらオキシトシン的な愛を、絵に対して持っている。

こと言葉に対しては、ずっとコンプレックスを抱いてきた人生のように思う。この場合のコンプレックスとは無意識の感情の複合体を指すので一口に劣等感とは断定しないでほしいのだけれど、小学生時分に詩や作文がクラスの中で良いものとして選抜されて、もしかしたら県の小学生の優秀作品が一堂に会する文集に載せてもらえるかも、というところまで行くのに毎回最後の最後で必ず同じ子に負けてその子の作品が賞を与えられ文集に載り、自分の作品は「良いと思ったんだけどねえ」で何にも残らず終わってしまう、という経験を複数回に渡ってしたというのがずっと自分の中に言葉というものへの価値の重さと悔しさの感情を形成しているのは事実だ。自分の言葉がどこにも残らないのが嫌だ。誰かに自分の言葉を見出して受け取ってほしい。今思えば人生レベルでそう思い続けてきたらしい。劣等感だけじゃない、言葉というものへの面倒で重ための愛があるからこそ。

ふざけてボールを投げ合うみたいにライトな言葉も、綺麗な箱を綺麗な包装紙で包んでリボンもつけて贈るみたいな美しくて貴い言葉も、どっちもあってどっちも使えるから言葉というものがとても好きだ。幼い頃から辞書というものが大好きだったし、今でも意味が明確にはわからなかったり言い回しや使いどころみたいなものが相応しいか自信がないものはすぐに文明の利器でおググりさせていただく習性がある。音の流れやどういった形態を使うかもとても気にする習性があるから、つまりは言葉というものをぞんざいに扱うのが嫌なのかもしれない。他者の発する言葉が自分の中で引っ掛かることも少なくないがそれを矯正させようという気はあまりないので、あくまで自分と言葉の関係が納得のいくものであれば良いように思う。私が言葉のことをきちんと愛していればそれでいいのだ。(でもやっぱり、言葉を愛している、言葉を大切に扱っている人が居ると惹かれてしまいがち。言葉選びが素敵な人に惚れがち。しゃーないよね。)

誰かの発した言葉を自分の中で宝物みたいに持っている、ということは往々にしてよくあって、誰かの言葉に、私は往々にして救われていて生かされているんだけど、そういう宝物みたいな言葉が、身近な人が自分の為に発してくれた言葉の中にも在るという事実が、涙が出るくらい嬉しく感じる。と同時に、だからこそ、ああ言葉が、私の生み出した言葉が、私を豊かにして、宝物みたいに光って、私を、そして願わくば私じゃない誰かを、優しく救ったならどんなにか。そう思って、そう願って、それを確かめる場所にしたくて、ここに来ました。真っ白い壁が心地良いのに、夜の海にいるみたいな、そんな場所で言葉を並べていくのはわくわくするなと思ったから。私が言葉と遊ぶ場所。絵も写真もなるべく載せない、言葉の置き場にできたらいいなと思っています。

@ao18ru
ここを待ち合わせ場所にして言葉と一緒に遊んでます。