年の終わりと始まり

aokiminori
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年始の気分をほとんど実感しないままに、ぬるっと1週間が過ぎた。最後に年賀状を書いたのはいつだっただろうか。もう思い出せないくらい前に年賀状はやめてしまった。31日の年越しそばも、年が明けてのおせちも結局食べなかった。これは流石にいかんかもしれん、と元日営業している薬局で一番安い切り餅と缶詰のあんこを買った。家に着いてすぐに袋を開け、2つの四角い餅をチンして食べた。餅をベストな状態に仕上げるのは至難の技である。たいていチンしし過ぎてしまう。はたと気づいた時にはすでに時遅し。プク〜っと中心が丸く膨らむ、絵に描いた餅には程遠い。しかしそのぐで〜んと皿に張り付いた現実の餅が、毎年ちゃんと冬を感じさせてくれるのである。

随分と手抜きな正月を過ごした。それはそれでいい。義務感に苦しめられてまで無理にご馳走を作る必要はない。だいたいおせちは余るものだし、2日目には飽きる。今年は20年近く繰り返してきた「正月といえば」のあれこれを、結局1つもしなかった。律儀に行事を全うしていた年は少々面倒だったけれど、しなければしないで少し物足りなさを感じるものであった。区切りを蔑ろにしてしまった後ろめたさも。世間の「正月圧力」のせいだろうか。

ぬるっと年越しをしてみたら、いつも通りの「いつも」の延長だった。私の気持ちは高揚も落ち込みもせずに平坦なまま、去年からただ地続きなだけ。今年は意外にも、正月に「正月感」を欲していた事実を知るところから始まった。

繰り返すとはある意味恐ろしい。習慣には気持ちがくっついている。年越しなんて日が沈んで日が上る、ただそれだけだ。それだけのことなのだけれど、それだけのことを大切にするかしないか、なのだ。区切りや節目を大切にすることは、何かの始まりをちゃんと大事にすることなのである。

@aokiminori
2000年生まれ。デザインをしたり、動画を編集したり、文章を書いたり。