何ヶ月か前、久しぶりにネイルでも塗ろうか、と思いたった。塗り方のコツを完全に忘れきったころ。体制を整えて意気込んだはいいものの、キャップと容器の口がすっかり固まってしまっている。なかなか開かない。無理やりゴリッと捻り開けると、やはり口のところに液が丸く塊となってへばりついていた。ペリッと剥がれそうで剥がれない。まあ今日はいけるだろうと、毎度の後始末をサボってきたツケだ。セルフネイルとは、心の余裕が相当必要な作業だと思う。
セルフネイルの一番の問題は、完全に乾くまで待てるかどうかだ。塗るまではいい。最重要課題は乾き切るまで辛抱強く、細心の注意を払い続けられるかどうかなのだ。せっかちな私の場合、少しでも早く乾すために冬は凍えそうな外気に当て、夏は保冷剤を両手に持つ。私の手は血行が驚くほどいい。年中ほかほかかなのがセルフネイルにおいては厄介だ。ポッドキャストを流してみたりドラマを見てみたり、手を動かさずに時間が過ぎるものを探す。
が、いつも途中でトイレに行きたくなるのがオチ。トイレは塗りたてのネイルにとって最大の難関だ。ズボンを下ろして上げ、手を洗い、ドアを開けて閉めなくてはならない。どうにか潜り抜けたぞ、と思ったところで、シュッ......とやってしまう。ちなみにこの時も例に漏れず。
う!と声にならない声をあげる始末であった。こうなることを見越して事前にトイレは済ませているはずなのに。ゆるゆるのズボンにまで履き替えて挑んでいるのに。結局塗ってから1時間も経たないうちに、私の爪は裸に戻ることとなった。除光液をコットンに浸しながら、毎回塗り始めたこと自体を後悔している気がする。だが結局忘れた頃に必ず、同じことを繰り返してしまう私。
21歳、それまで全くネイルに興味のなかった私が、初めて爪に色を塗ってみることにした。きっかけは「おしゃれ」に力を借りたくなったからだった。ネイルを塗ることは、私にとって武装の1つであった。その1平方センチメートルくらいの面積に色が乗るだけで、バリアが出せるような気がした。高保湿が売りのボディークリームのCMのように、とぅるんっとした膜が自分の外側に一枚張る感じ。セルフネイルなので1週間もすればハゲる。でも毎週末の夜に必ず塗った。どんなに疲れていても、目をこすりながら色を着せ替えた。今思うと謎すぎるのだけれど、その時は爪が色で綺麗に飾られている状態でないと出社することができなかった。「こんなに綺麗な爪なんだから大丈夫。」と思うことで、なんとか家を出た。通勤電車の中でも何度も袖から爪を出して、意識的に目に入れていた。
まぁそんな爪ごときで保っている心なんて健康な状態であるはずもなく、爪に全ての信頼をおかなくては家を出られなくなって割とすぐ、目にみえる形でガタがきた。そうしてまもなく、会社にも行けなくなった。
会社に行かなくなって良くなると、必然的に武装する必要性はなくなる訳で。ネイルポリッシュが並ぶ引き出しを開ける頻度は格段に減った。
私の中でネイルは武装の1つ。できれば必要のない鎧などかぶりたくない。鎧なしで過ごせる日常を送っていきたい。塗る作業だっていつも面倒臭い。お手入れだって手間だ。けれど手の先っぽが綺麗な色で彩られている人を見ると素敵だなと思うし、自分の手の先っぽもできればそうでありたい憧れもある。できればポリッシュが乾く時間も焦らず待てるようになりたいし、お手入れも苦でなくなりたい。
いつか、自分の気分を上げるためだけの習慣になる時が来るだろうか。誰にも会わない、どこにも行かないけれど、自分のためだけに塗る。「武装」のためにおしゃれをすることも、至極真っ当な理由である。けれどそれは自分を満たす要素を他者の評価に委ねているとも言える。身なりを整えることは自分のためであると同時に、相手のためでもあることは十分理解した上で、「どちらかだけが10割」のおしゃれを私は望まない。冒頭に記した、久方ぶりにセルフネイルを思い立った理由も、よくよく問いただしてみれば何かしらで自分を「強く」する必要がある約束が迫っていた時であった。自分の幸せは、自分の内面を起点に生まれるものだけで構成されていたい。幸せは自給自足できる方がいい。
鎧としてのネイルではなく、自分を大切にするためだけに。