人は見た目ではない、と言いきりたい。
でもせっせと毎日を生きていれば、理想と現実は違うことくらい分かってしまう。中身がどれほど素晴らしくても、外見で「最低限の」好印象を抱いてもらえない限り、中身を知りたいと思ってもらうことは難しい。本当に悔しいけれど、受け入れるしかない現実である。
私は頻繁に道を聞かれるタイプである。それは旅行先でもだ。イヤホンを日常的に着けていないとか、あまりスマホを見ていないからとか、そういうこともあるだろう。けれど、きっと、聞いたら親切に教えてくれそう、な見た目なのだ。実際に声をかけられたら親切な対応を心がけるし、可能な限りのホスピタリティも発揮する。それが顔に滲み出ているのだろうか。ううん、わからない。
私は本当によくおばあちゃんに話しかけられる。どんな流れでそうなるの(笑)、と友人にはいつも笑われる。おばあちゃんとのおかしな交流が日常的に生まれるのだ。そしてあれやこれやと貰って帰宅する。あまりにも見知らぬおばあちゃんと仲良くなるので、そういう素質があるのでは、と思ってしまう。いや、そういう顔なのか。
素敵な顔をしている人を見ると、ああ、お話してみたいなあ、と思う。それは資本主義社会が作り上げた、美の基準を多く満たす顔のことではない。自分の人生を生きてきた/生きている、という自信や意思が滲み出ている顔。自分も周りの人もリスペクトしていて、何事にもまっすぐ向き合おうとしている人の顔。意思の表れた「いい顔」をした人に出会うと、どきっとする。顔が発光している。内側から何かが光っているのだ。それはパール入りの下地を仕込んでいるからとか、ハイライトを塗っているからとか、そういう後付けのものではきっとない。「いい顔」、なのだ。内側から滲み出る光るもの。出そうと思って出せるものではない。顔、と言うより人相や顔つき、という方が近いかもしれない。
顔からは、勝手に内側の色々なものが滲み出てしまう。自信、経験、健康状態、性格、趣味趣向、精神年齢、未来への希望も。ああこの人は素敵な顔をされているなあ、と思うとき、話をしてみると、生き方や考え方も美しいことがとても多い。外見は一番外側の中身、というのはあながち間違いではないのかも。
彫刻家の高村光太郎さんの「顔」という作品に、このような一節があった。
「顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔をまる出しにして往来を歩いている事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまうより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたという事が見えるだけである。一切合切投げ出してしまうのが一番だ。それが一番美しい。顔ほど微妙に其人の内面を語るものはない。性情から、人格から、生活から、精神の高低から、叡智えいちの明暗から、何から何まで顔に書かれる。」
「正直な看板」である「顔」。メイク、髪型、ファッション。外側の装いにこだわりを持つことはもちろんだけれど、外側よりも内側に魅力が溢れる人でありたいなあ、と思う。久しぶりに会って、「なんかいつ会ってもいい顔してんね!」と毎度言われる人になりたい。