※映画『PERFECT DAYS』のネタバレを含みます。
本、映画、舞台、アート、音楽。何らかの表現に触れたことを口にすると、決まって感想を聞かれる。そういう時、私はいつもはっきりと言い切ることを躊躇してしまう。そこに込められた制作者の意図や思いとは違うものを受け取っても、重きを置かれていない部分が刺さってもよい。一人一人に「表現の自由」があるのなら、「受容の自由」もあるべきである。それでもなぜか、「どう表現するか」よりも、「どう感じるか」の方に、理想の枠のようなものを感じてしまうのだ。
私はこう感じたけれど、みんなもそうなのだろうか——自分が素直に感じたことが浅かったと自覚するのが怖くて、書評や映画レビューを読むことを避ける。何を感じて何に思いを馳せるかなんて、自由だ。自分が感じたことが全てで、そこに浅いも深いも、良いも悪いもない。違って当たり前で、同じである必要は全くない。作り手の想定する枠の外にある、些細な点に自分の心が振れることだってある。そう頭ではわかっていても、想定された方向とは異なる向きに感受性が働いたこと、そしてそれを口に出すことを不安に感じてしまうのはなぜだろう。
「同じ」への理想と安心が邪魔をする。ゆえに「あの映画どうだった?」と聞かれると、「良かった」と言うのも「あんまりだった」と言うのもどちらもしっくりこない。数秒考えて「うーん、考えることがあった」と答えてしまうのだ。
表現に接することで感情が動かされる。記憶が思い起こされたり、新たな気づきが生まれたりする。いくらか内省的な行為が誘発されたことは確かなのだが、それらの機微はあまりに個人的な産物すぎる。正直な感想を口にしようとすると、超個人的な記憶や感情、経験をその場で言語化して外に出す必要性が伴い、なんとも挙動不審に濁してしまうのだと思う。
他者の目線を一切介さずに、自分の感受性に委ねる。まずは自分のものとして心ゆくまで解釈しきりたい。私はそういうスタンスを大切にしているようだ。ちょっと気にしいな性格も相まって、映画や美術館へは基本一人で行くことが多い。先日も年始から続いていた〆切を乗り越え、映画館で一人『PERFECT DAYS』を観た。
しばらくして、数人とこの映画の感想を共有し合う機会が訪れた。感想は自分で噛み砕く派だった私。だが他者の感じたことのボールを一度受け取ってみると、はっきりと形を成していなかった感情が具体的になり、そして熟成されていく感覚を覚えた。前置きが長くなってしまったが、この体験が今回この場所で「超個人的な機微」を文字にするに至った経緯である。
役所広司演じるヒラヤマという男の生活を覗き見る、ドキュメンタリーとフィクションのちょうど境目のような映像作品。この冬、彼の生活を映画館で覗き見た人は多いだろう。「同じ」を繰り返しているように思える毎日。しかし全く同じ日は一日としてない。コントロールの効かない、我の外側で起こる微々たる変化や差異に心をほんのり揺らされながらも、まるで自分を律するように繰り返しを好む、「ヒラヤマ」という人物の日々。毎日が同じようで同じではない、繰り返しの美学。「ZEN Movie」とも称されているらしい。
理性で抗えず顔を出す煩悩や、時折垣間見える感情的な一瞬の振る舞い。そこに裕福な家庭での彼の幼少期と、それゆえに味わったしがらみや苦しみが垣間見える。今の彼の生活スタイルは、彼だけの内なる苦しみの先に辿り着いた、自らを最も健やかに律するための手段なのだろう。
「繰り返しの美学」というこの映画の主題。日本社会の目まぐるしいサイクルの中に飛び込んでみたは良いものの、自分自身が消費され、いくらか忙殺されているような感覚を味わう経験が多い人ほど、この映画を「とても良かった」と感じ、彼の生活に対して「憧れ」の感情を抱くのかもしれない。そう思わざるを得なかった。
自らの意思のもと、資本主義社会について回る成長意欲やあらゆる欲望。それらの「俗っぽいもの」から適度に距離を取った彼の生活。仕事の合間にふと手をとめて揺れる木漏れ日に目を向け、そこに美しさを感じる。毎日仕事終わりに行く銭湯の、おじいさんたちの変わらぬ姿が愛らしい。古本屋のおばさんやカメラ屋の店主との、ほんの少しのお決まりの会話。
日常の中にある些細な美しさや愛しさに心を揺らす。そのためには、心の余白が必要だ。何もない真っ白な部分を意図的に残しておくこと。可能な限り手放した末に得ることができる、余白のある毎日。そうは言っても、現代社会で生きていく中で余白ほど作ることが難しいものはない、とも思う。よほど意識的にならなければ、日々に安定した余白を保ち続けることは困難だ。だからこそ彼に憧れ、今の自分のままでいいのだろうか、と度々立ち止まるのだろう。きっと常にある程度の余白が保たれていてこそ、自分にも他者にも寛容に、そして「今」に充足感を得ることができると分かっているから。
けれどきっとそれだけではない。関わる人々や毎日のルーティーンの中の変化を楽しみ、そこに宿るささやかな美しさに心を満たすことができるのは、豊かな知性があってこそなのだ。
彼はほとんど言葉を発さない。しかし周囲をとてもよく観察している。本を読み、音楽を愛し、植物を育て、人をよく観察し——知性があるからこそ、自然の織りなす小さな煌めきや、彼を取り巻く人々の素敵な部分に目を向け、心を耕すことができる。ささやかな美しさに喜びを感じられる感性と、それを裏付ける知性。知性に基づいた細やかな観察力が、他者の評価を介さない、自分だけの「十分」な生活を実現させている。
本を読み、音楽を愛す。写真を撮り、植物を育て、そして働く。「修行のようだ」と比喩されるそんな生活。「同調」の類は一切ない。けれど社会とのつながりを完全に断絶している訳でもない。あらゆるものと自分との心地よい距離感を把握し、たまのイレギュラーも許しながら、その距離感を程々に保てている毎日が、きっと彼の、Feeling Goodな日々なのだ。
今年も春が来た。少し遅めの春。どこも桜が満開で、みんな上を向いている。皆が待ち望み、去ることを惜しむ季節。電車に揺られていつもの景色が流れていく中、遠くの方にピンクのこんもりした塊がポコポコと見え、「あそこは桜だったのかあ」と気づく。今年の春は、それだけで十分だなあ、と思えた。