ポジティブよりもネガティブの方が、人と人とのつながりを強めやすい。嫌いなものが同じとか、苦手な人物像が近しいとか、辛い経験や境遇が似ているとか。印刷技術が発明され、ヨーロッパ各地で新聞の原型となるパンフレット型の刊行物が発行され始めた16世紀。本格的に定期刊行物としての新聞メディア・ニュース出版が拡大していくが、当時から有名人の死やゴシップネタは人々の関心を強く惹きつける「売れる」コンテンツであったという。人間がゴシップや飛びついてあれやこれやと言いたがるのは、国境も時代も関係ないようである。
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人間は元来、ポジティブな事象よりもネガティブな事象へのアンテナを張り巡らせる必要があった。なぜなら種として生き延びる必要があったから。ぽけーっとしていたら食料や仲間を失い、殺されるかもしれない。自身や属する集団にとってのネガティブな事象には即座に反応し、共有して記憶し、次に活かす必要があった。楽しい出来事やいい思い出よりも、辛い経験の方が詳細まで鮮明に記憶されるし、無意識に目が吸い付いてしまう。だからゴシップネタは数字としても伸びやすいし、売れるのである。
嫌な記憶の方が思い出しやすいのも脳の構造のせいだと思えると、なんだか楽になる気がしないだろうか。ところでヒトと最も近い種は、チンパンジーとボノボだそうだ。諸説あるが、共通祖先からチンパンジー・ボノボとヒトに分化したのは700万年〜600万年前。猿人、原人という変化を経て、私たちの「人間」の原型である新人、ホモ・サピエンスが誕生したのは20万〜10万年前のアフリカらしい。その後長い長い月日を経て、現在の私たちの生活の基盤が形成される近代化が始まったのは、たったの約100年前である。
1950年以降の加速度的な経済成長を経て、私たちは物質的に飽和しすぎた社会に生きている。ホモサピエンス以前の想像もできないほど長い歴史と比較すれば、誰もがテクノロジーの結晶を手の平で操る生活スタイルが確立されてからの時間なんて、ほんのわずかであることは言うまでもない。圧倒的に長い歴史の中で作られてきた私たちの脳みそが、たった100年やそこらで大きく変わるはずがない。対応できないのも頷ける。インターネットが誕生して生活の一部と化してから、たったの20年ほど。私たちが親密さを高めるために、安直に「ネガティブ」を共有することを選んでしまうのも、無理ないのかもしれない。
人と人との関係において、双方が遠慮なく、ネガティブなことを打ち明けられる相手であれること。そういう関係性が築けることは大事だ。けれど同時に、それだけで繋がっている関係は非常に危ういとも思う。
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最近、食わず嫌いならぬ「見ず嫌い」をしていた韓国ドラマを見始めた。友人のおすすめから韓ドラデビューをし、その作品の出演俳優つながりで『二十五、二十一』という作品を見た。話の軸はラブストーリーなので、紆余曲折ありながらもメインキャストの二人がカップルとなるまでは想像に容易い。
二人がお付き合いを始めてしばらく経った頃。仕事柄、男性が社会的な潮流に巻き込まれ、精神的に辛い状況が1年近く続く。最初は弱音を吐いていたが、パートナーの女性のことを思うが故、徐々にその辛さを一人で抱え込むようになる。彼が悩んでいることを感じ取っていた女性は、ある時その状況に不満が爆発してしまうのだ。そうして久しぶりに顔を合わせた時、彼女はこう怒り叫ぶ。
「全てを共有してよ!幸せなことだけじゃなくて、辛いことも、しんどいことも。それが愛でしょ?!」
と。この出来事がきっかけとなり、彼らは別々の道を歩み始めることとなる。
ネガティブなことを共有してこそ、関係性が育まれる。お互いにそれを求め合い、受け止め合うことイコール愛だ。これが彼女の言い分だった。でも本当にそうだろうか。私はこのシーンに対するモヤモヤが、中々消えずにいる。
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最果タヒさんの『「好き」の因数分解』という本に、こんな一節があった。
『すべてを見せることが、なにもかも伝えることが、私たちに本当に、必要なことなんだろうか?そうではなくて、お互いがお互いを、たったひとつの「心」なんだと尊重しあって、すべてを見たがらない、暴こうとしない、ということこそが「関わる」ということなんじゃないだろうか。』
相手の全てが見えることで、私の全てを知られることで、それが歪みとなることもある。愛し合っているかどうかとは、全く別のところで。
ネガティブの根底まで、1mm残らず全てを曝け出す。そうし続けることが「関係性ピラミッドの最上級」ではないと思う。曝け出そうと思えば曝け出せる心理的な前提ありきで、自分の状況も相手の状況も大切にできる。その上で言葉を選び、冷静に伝えることと伝えないことの選別ができる。そういう「尊重」を基盤に、時には2人の円の外側にいるプロフェッショナルの力も借りながら、自分も相手も、健やかに生きていく。
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先日友人とコーヒーを飲みながら、私は彼女に最近嬉しかったことについて尋ねた。すると彼女は、同級生Aさんの話を嬉しそうにし始めた。
「自分の友達が全力で頑張っててさ、その努力が評価されたんよ。嬉しいよねえ。Aさんのその報告が一番嬉しかったなあ。」
ニコニコしながらチーズケーキを口に運ぶ。Aさんはこの数年間コツコツと努力を重ねてきたことが実を結び、最近目に見える形で評価を受けることができたそうだ。そのことを自分ごとのように喜ぶ彼女自身も、かなりの努力家である。「努力をしている人には努力をしている人が集まるのだろうなあ。」と私が言うと、「”類友”だからやん?」と彼女は言った。
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お互いのマイナスのエネルギーでお互いのエネルギーを吸い合い、意図せず下げあってしまう、そういう寄生しすぎた関係ではなく、たまに寄りかかる時があっても寄りかかりすぎることはない、双方が健やかに自立した関係性。それはきっと、家族でも、恋人でも、友人関係でも同じで。
自分に近い”類”を呼びよせることで集団を成し、結束を固めて生き延びてきてきた人類は、意識せずとも類を「呼んでしまう」のかもしれない。環境で人は変わるし、環境が人を作る。
自分次第でネガティブな”類”をも呼んでしまうことは、時に厄介だ。ずっとポジティブに生き続けることは誰しも不可能だけれど、常に相手を尊重する大切さを、決して忘れてはいけない。
大切な人たちにとって、私も「ポジティブな”類友”」の一人であれたなら。そうありたいと思うから、「関係性」についてこれからもずっと考え続けるのだろうな。