⚠️⚠️⚠️ガッツリネタバレしてるので注意!!!!!!!⚠️⚠️⚠️
衝撃的な映画だった。
元々濱口竜介作品は「ドライブ・マイ・カー」がかなり好きだったので、この映画も期待値高めで観た。
しかし、最初の部分は音楽とカットの撮り方こそ濱口作品を感じられて良いと思ったが、冗長でストーリー自体もよくある話だと思った。また、主人公も演技未経験の方を抜擢したという前情報は持っていたものの、本当にぎこちなく、かなり失礼ながら観れたものではないな...と思ってしまった。最初は自然の中で生活する住民たちの様子を冗長とも思えるくらいにゆったり撮っているカットが多めだったので特に入り込む要素もなかった。
そんなこんなで物語は進んでいく。
この話の本筋としては自然豊かな街に補助金狙いの芸能事務所がグランピング施設を建てようとするという話だ。当然住民たちからは反発があり説明会は失敗に終わるが、芸能事務所の担当者側も住民と会社側の板挟みで苦労しており、住民と関わりを深めることで自然の良さも知り、住民の考えにより寄り添おうとする。住民側、特に主人公の巧もその態度に最初はぶっきらぼうながらも徐々に心を開いているっぽい...。みたいな話である。よくある話でもあり、一社会人として芸能事務所の担当者側の苦悩はよく分かる。とても現代的な日本の悩みを上手く観客が引き込まれるように描いているなあと思った。しかし流石にそのようなそれぞれの苦悩を対比的に描いて「悪は存在しません!!」にはならないでしょう...?と訝りながら観ていた。
そして衝撃のラストが唐突に訪れた。
行方不明になる花。探す巧や高橋、住民たち。見つけられないまま夜に。巧と高橋は鹿と対峙する花を見つける。助けに行こうとする高橋。巧が高橋の首を絞める。花に巧が近づく。花の左鼻が血に染まっている。花を運ぶ巧。息遣いと木々の情景と共に幕が下ろされる....
何が起こっているのか分からなかった。分からなかったがあまりの衝撃に息ができなかった。苦しい。心拍数が上がる。物語が終わりこじんまりとした映画館の照明がついて他の観客たちが一斉に席を立ち上がっても、物語の余韻に縛られその場から動けなかった。
物語の終盤まで、主題としては結構卑近な例を出してきてるな?などと油断していた。とんでもない物語だった。
あまりにも突飛なラストだが、巧だったらやりかねないとも思ってしまった。彼の演技未経験の不器用さは他の上手い役者の中で最後まで異質で、その異質さが彼の最後の行動を受け入れる土壌になっている。天才的な配役だと思った。
なぜあのラストになったのかは最初全く分からなかったのだが、自分で考えみてたり批評を読んだりしてなんとなく思ったのは、悪と悪の裏側にある苦悩が交互に出ているという構造にヒントが隠されているかな?ということだった。
芸能事務所の社員でグランピング事業担当の高橋と薫は、説明会で見たら圧倒的に悪だが、都会に戻っての苦労っぷりをみると悪は思えない。むしろ共感さえ覚える。巧は決して父親としての責務を全うしているとは言えず、娘の花へのお見送りは忘れるしあまり娘にも構わないが、地元の人たちには尊敬されており、説明会のコメントやうどん屋へのアドバイスなど貢献度も高い。また母親らしき人がいなくなってしまったという事情も仄めかされる。悪と悪ではない部分が交互に映されることによって、悪が曖昧になっていた。なら最後の巧の行動は?
最後の巧の行動の前に、高橋、薫、巧の3者で鹿の加害性について話していた。鹿は基本的に人間を襲わないが、手負いの鹿またはその親なら襲うこともある。
鹿と対峙している花を見つけた時、自然、動物の恐ろしさを知り尽くしている巧はその状況の絶望さを悟り、更に軽率に動こうとし、そもそもこの状況を作り出すことに関与した高橋、良い父親になってやれない自分へのもどかしさなどが複合的に積み重なってあの行動に及んだのではないかと思う。圧倒的な悪という行動の裏に丁寧に悪を打ち消す理由を作っていってのあのラスト。題名にふさわしすぎると思った。最初と最後に出てくる木々もとても象徴的だ。人間界に何が起こってもその佇まいを崩さない木々は、善悪を超えた存在として描かれたのだろうか。人間の悪の部分を曖昧なものとしておいて、最初と最後に善悪を超えた圧倒的な存在としての自然を描いているような気がした。
タカを括らないこと、構造を一段高い所から追うと全体が見えてきて結果としてより深く楽しめること、そしてこのような映画は必ず映画館で観ることを学んだ。これまでの映画体験の中でも屈指の体験だった。