見えない敵

aoringo
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見えない何かと戦っている人は怖い。誰も何も言ってないのに、「あの人は私のことが嫌いだから、他の人には〇〇するのに私にはしないんだ」「私なんかがこんなことを言うなって思われてるだろうけど」「私の発言はつまらないと思われているだろうけど」とか。

いや誰も何も言ってなくないですか?自分に自信がないから予防線のつもりなのかな。でも、過度な卑屈さは面倒な人に見えるだけだよ…という気持ち。

でも、こんなこと言ってる自分も「そうなんだ〜」って受け流せずに「何でそんなこと言ってんの?」って引っかかってしまってるんだから同罪か。よけいなお世話だね。つい口を出したくなってしまうのは良くないクセだ。それに、自分もこういう考え方してしまってるときもあるし。

やっぱり認知に歪みがあって、なにか物事があったときの受け取り方や考え方がずれているんだろうな。まあ、認知の歪みがない人はいない(誰しも多かれ少なかれ持っているもの)と思うので、認知が歪んでいるからだめだということではない。

ただ、認知が歪んでいるとやっぱり壁にぶち当たるというか行き詰まりがちな気はするので、ある程度はずれを修正できた方がいいのかも知れない。これがメタ認知ってことなのかな?「あ、いまネガティブな受け取り方をしたな」と自分で分かることが重要かも…とここ最近思っている。

よくある例えで、コップに水が半分入っているとき「まだ半分もある」「もう半分しかない」どちらと捉えるか、という話がある。私が思ったのは、「もう半分しかない」と思う人が無理に「まだ半分もある」と思えるように思考を矯正しなきゃということではなくて、「あ、いま自分は『もう半分しかない』と考えたな」と気づけたらいいんじゃないかということ。すると、自分がどういう思考をしがちか分かっていくんじゃないか?そうするとさらに、この考え方以外にも認知の仕方はあるんだな、と他の道が選択肢として浮かんできやすくなるかもね…ということ。

まずニュートラルに「コップに水が半分」という事実を把握して、それと感情(まだ半分、もう半分)は別のレイヤー、と考えられるといいのかもしれない。

これは認知が歪んでいることへの批判ではない。主に自省なんだけど、認知に歪みがあることを認めて、別の考え方があることを理解?把握?(not納得)した方が結果的に息がしやすいのかも…?というただの推測。

でもさ、そもそも認知が歪んでいる人は認知が歪んでるということに気づけないんだよね。繰り返しになるけど、自分も含めてのことね。私は部署変更してもらって定時に帰れるようになったり、実家から離れて一人暮らしをしたりと環境の変化があった。それで今は多少余裕があって、こうやって「あ、あの時の自分の考え方はとても歪んでいたな」と気づいたけど(程度は違っても、今ももちろん認知の歪みはあるんだと思うけど)、何かきっかけがなければ認知や考え方のクセってなかなか意識しないもんな。問題の渦中にいるときはとにかく必死だから、自分の認知がおかしいなんてことに気が行かなかったし。何ならやんわりそう指摘されると「何でそんな私を傷つけるようなこと言うんだ!傷ついた!許せない!この人はひどい!」っていう方向に行ってしまう。家族とか、大事な人だからこそ心配して言ってくれるんだけど、大事な人に言われるからこそ「こんなに苦しんでる自分」を否定されたような気がして傷つくんだよね。

考え方を変えなければ!ということではなく、息がしにくい場合は他の考え方があるかもよ…と知っておくだけでちょっと息がしやすくなった気がするよ、っていう話です。みんな無理にポジティブとか楽しくならなくてもいいから、息がしやすくなったらいいなって思っているよ。