「芸術家の道は、次のようでなくてはならない。すなわち一つ一つ障害を乗り越え、一段一段と築き上げて行って、最後に自分自身の内部を見ることができるようになるのである。それも、爪先に立って、目を引きつらせたり、硬らせたりして見るのではなく、景色でも眺めるように、静かに、明晰に、眺めるのである。この、自分自身への帰還の後に、柔い歓びが彼の中に侵入してくる。彼の生活は創造となり、そしてそれは、外部にあるものをもう必要としない。彼は遠くまで来た。成熟の場所は彼の中にある。」(リルケ『フィレンツェだより』森有正訳、ちくま文庫、p. 35)
「景色でも眺めるように、静かに、明晰に、」自分自身を眺めること、日記も同じことかもしれない。
君死ぬ第10話を見た。比較的平和な回。ミミがシーナに対してもつ気持ちがはっきりとしてくる。シーナとミミの関係が少しずつ輪郭を伴ってくる。あとハルくん回でもあった。
『枯木灘』を読む。土方仕事、日の光に蝉の声、紀州の土地と自然、兄郁夫の自殺、浜村孫一の伝説、腹違いの妹との交接、などといった同じモチーフが何度も繰り返されながら、じりじりと話が進んでいく。一つ一つの場面が鮮烈で思わず息が詰まりそうになるが、このままどこまで行き着くのかが気になって読み進める手が止まらない。
昔の自分の日記を読み返していた。昔の自分はちゃんとものを考えていてえらい。最近の私はあまりものを考えられていない。もしかしたら今の自分にはもう、ものを考えるということができなくなっているのかもしれない。それが怖い。明晰かつ大胆に思考すること。というかそもそも最近の私は「問い」を失っている気がする。それはそれで悪くないけれど、何かを書くのには良くない。それと、昔の自分は実によく本を読んでいる、そのおかげでものを考えることができていたのかもしれない。