2024/10/18:日記

Aqu4
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公開:2024/10/18

朝からデリダを読むけど、途端にわけがわからなくなってしまった。他者とは別に「第三者」という概念が出てきて困惑したのでやめ。その後、武田青嗣のハイデガー入門書をペラペラと見る。誠に遺憾ながら本を一部処分してしまおうと思っており、本書も処分予定リストの内の一冊。やっぱりハイデガーってあんまり面白くないと思ってしまう。あるいは武田青嗣が面白くないのかもしれない(好きな人には申し訳ないけど)。彼が白眉と称する死の現存在分析なんて、全く哲学的には見えないし。いずれにせよハイデガーは典型的な超越論的哲学で、要は自己の実質的内容のみから世界を構成しようとしたっていうことだと思う。それって全然「存在」の探求でも何でもないように思えてしまうけれど。

大体、死が特別なのは他ならぬこの生が特別だからだよ。決してその逆ではない。死の固有性とかいって、誰も私の代わりに死ぬことはできないだなんていうけれど、それを言うならまず誰も私の代わりに生きることはできないんだ。この点ではハイデガーこそ、死への不安のあまり知性を曇らせてしまっている。

しかし一方でハイデガーが存在論を語る上で死、つまり(こう言い換えて良ければ)無に着目したのは、全く的外れというわけでもないと思う。哲学者松井吉康は、根源的な論理的真理とは、「一切が純粋な無ではない」、敷衍して言えば、「全く何もないということではない」、という疑えない真理であると言う。この純粋無の否定という論理からこそ全ての存在論が始まるべきだというのだ。これについてまた私の臆見を述べると、それでもやはり、この論理に先んじて、この生という端的な事実があるはずだ。従って、純粋無の否定という論理はこの生という端的な事実を消去している。とはいえこの消去の〈痕跡〉は私や今や現実という形で残っているのだが。ともあれ、こういう水準で考えない限りおおよそ「存在論」という名には値しないと私は感じてしまう。

講義が終わって外に出ると、冷たく湿った空気と木々の緑とそこから垣間見えるくぐもった空が待ち構えていて、しみじみと美しい。よく見るとところどころ葉が黄色く染まっている。生きているという実感を得た気がした。

『灯台へ』を読む。文学的価値とは別に、いつも観念的なことばかり考えてしまい現実的なことを考えるのが得意でない私にとっては、登場人物たちの内省の仕方は単純に参考になる。

大学に積読同好会なるものがあるらしい。気になってチラシをもらっちゃったけど、詳しく見てみるとなんかキラキラしている感じがして気後れする。講義やバイトや他のサークル活動やらの合間に集まって効率よく消化してついでにみんなで交流もしようなんて。そもそも忙しくて買った本が机の上に置きっぱなしって、じゃあ全く忙しくもないのに怠惰のあまり読んでいない本を几帳面に本棚に並べて悦に浸っている脳まで積読に支配された私の行動はいったい何て呼べばいいの。読まずに本棚に並んだ背表紙を鑑賞するだけの会とかがあればいいのに。そうだよ、読んじゃったらそれは積読を愛してることにはならないよ。ただの読書会じゃないか。積み上がった本の前でおやつを食べたり昼寝をしたりしてこそ、真に積読同好会と言えるのでは。

@aqu4
「ここに述べるところは、さまざまに変化する出来事と、未解決の思想の、いや、ときには相反する思想の、記録である。」(モンテーニュ『エセー』第3巻第2章)