
2026年5月1日(金)
生きていて、無事でいてと、願う気持ちの心許なさ。いなくなるなら突然だ。きっとこのように。
はたと途絶えればそれで仕舞いで、あったはずのこれまでなどたったひとつも残らない。そう思えてならず、そうではないとは言えず。
2026年5月2日(土)
美術講師らしき男性たちの会話を隣席に聞きながらクリームソーダに長匙を差し入れる。高塚謙太郎『散文の連なりについて』を買う。
2026年5月4日(月)

色眼鏡越しの夕べは赤みが増して歩道の層も常より厚い。辛くて苦い食事を摂る。
2026年5月6日(水)

国や社会への反骨の意志を持ちながら勤労や公務によって成り立つ福祉を享受する矛盾をどのほど許容するか。
歩きながら話し、古着屋でジャケットを迎え、サンダルを試して、蒸し鶏を食べた。
2026年5月8日(金)
書こうとして書く詩は詩からよほど遠く見えて手が止まる。報われないこと、敵わないもの、満たされないときが目立って浅ましさが際立つ。何も知らないのは私のほうだ。今さら言葉にするまでもなく。
居酒屋の前の汚れた路上にイチゴが一粒落ちていた。
2026年5月9日(土)
目指し追いかけ焦がれるべきは他者でもなければその者が手掛けた過程でもなくこの世に存在するそれ自体の美しさ。放たれる輝きにまっすぐすみやかに目をつぶされて、そのまま光の只中にあれ。
2026年5月11日(月)


白色の子が両手を上げて寝ている。灰色の子が食器棚の引き出しに潜んでいる。
2026年5月12日(火)
映画『最強のふたり』を途中まで。
飲酒も喫煙も髪型も服装も、どれを選びどれを選ばないかは自らを生きることと同直線上にある。そのようなことをあの子が話してくれた。中野の飲み屋での記憶。
2026年5月15日(金)

森美術館で『ロン・ミュエク展』を観た。
闇に浮かぶ顔に眼前を支配されて足元を掬われる。今見えているものは精巧なまでに人間の形を模しているがその視線は誰とも重なることがなく、しかしそれならば生者にも当てはまる。


2026年5月16日(土)

個人から生み出され発せられる言葉、記述、表明に情報や知識や倫理としての正しさを求めるのははなからお門違い。ただ美しさでのみはかりたい。
歩けと止まれを分かつ住宅地の遮断機は子どもの力でも容易く除けられるほどの区切り線。その程度がその程度であるには理由があって、そのうえでそのようなものに守られている。
2026年5月17日(日)

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で『福田尚代 あわいのほとり』を観た。
削り彫られ、象り切り取られ、潰し縫われたものたちが静かに佇む空間で、これらはみな今、本来の形に近くある。
文脈や枠組みから解かれたそれらは所在なげにも、不安そうにも、生気を失ったかのようにも見える一方で、また別の単位として生を受けたかにもうかがえる。淡い影を湛えて泳ぐ艘々の群れは、思うがままに船首を傾け、そうありながらひとつの輪郭を描いていた。
2026年5月19日(火)
猫たちが2歳に。あてがわれたものより段ボールや紙袋が好きなのは変わらず。
2026年5月21日(木)
年月を重ねて、だからできなくなったことなど言うほどなく、しかしいよいよできないとばかり。煙草のにおいが拭えない。
2026年5月22日(金)
春に雪解けた滝のように言葉を流し流して、さて誤っているのは何か。
2026年5月24日(日)

生きていてよかった、元気そうでよかったと、言ってもらえてよかった。
市川春子作品集『虫と歌』を読む。
2026年5月27日(水)
湖を囲う山の影でありたい。爪の縁に翻る光でありたい。
2026年5月30日(土)
カフェインを摂り、かえって頭痛を強くする。四角に切り取られた空を見上げながら葡萄ジュースを飲む。