ずっと思い出せなかったこと

aresan
·

私は元々読書が好きだった。そこから小説を書くという遊びを覚え、今に至る。でも、実は読書の方法も、小説を書く方法もずっと思い出せなかった。

忘れてしまったのは高校二年生の時で、自分の母親から「お兄ちゃんのことはわかるけど、あんたの行きたい大学に興味がない」と言われたことがきっかけだ。当時、私は高校二年生で演劇部に所属していた。けれども、その時の衝撃から台本に書かれたセリフをまったく覚えられなくなってしまった。その時、キャストとして出番をもらっていたのに、である。

ついでに言えば、勉強もできなくなってしまった。簡単なことが覚えられず、今でも大学へ行けたのは何故なのかわからないし、恥ずかしいのだけれど、本当にラッキーだったと思っているくらいだ。

でも、その影響は一時的なことに終わらなかった。気がつけば、本を読むことができなくなってしまったのだ。最初はコミケで買った同人誌だった。いつものように買ったから今日は一日読むぞと思っていたのに、腕が自然と本を閉じ、ベッドの下に本を置いたのだ。私は自分が何をしているのかわからなくて、混乱した。これが確か高校卒業後、すぐの夏のことだったと思う。

次に読めなくなったのは商業小説だった。これは大学時代に恩師が勧めてくれた小説にハマっていたので、割と長く能力が持った。でも、大学を卒業して、働き始め、しばらくしてからは読めなくなってしまった。好きな作家の書く内容が成人男性向けで、女である自分に向けたものじゃなかったなと急に感じたことも大きいのだろう。結婚を機にほとんど読めなくなってしまった。好きな作家であっても、そうでなくても。

産後はもっとひどくて、体力がなくなってしまったので本を読む余力はなくなった。子どもには何をおいても苦労をさせたくない、人格を守って成長させてあげたい、そういう気持ちが強かった一方で、実家にとってダメな子である自分がなぜ子どもを産んだのかわからず苦悩した。結婚や妊娠出産に対し、抑圧に敗北をしたとも感じていた。一時期は食事を取ることも怪しくなってしまった。

そういう経緯で、産後一年ちょっとしたら弱虫ペダルに出会って、金城真護に大ハマりした。そして、カップリングにも大ハマりして、気がつけば10年近く活動していたので驚きだ。それも、二次小説で。

小説を書く方は、中学生~高校生時代にやっていた。当時も二次創作で、本を作ってはせっせとイベントへと持っていった。でも、売れたことはなかった。交流だけはできていて、イベントで知り合った人と文通をしたりもしてとても楽しかった。様々なジャンルの人と交流し、でも自分よりも大人の人が多かったので色々なことを学び、吸収したと思う。

それから十数年が経っていて、もう読書もできない頭になっていて、それでも自カプの小説を書きたくて、どうやったら書けるのか悩みながら、勉強しながらやってきた。それは全くのゼロから始める作業だった。とても苦痛だった。

その苦痛はそんなに縁遠くなってしまったのなら当然だと思われるかもしれないが、私は違うと思った。何故なら、なんというか、体に刻まれたはずの「リズム」が復活しなかったからだ。中学生、高校生の頃書いた小説が素晴らしかったとは言い難いし、友達以外には誰にも読まれなかったので評価もわからないが、それとは別に自分が文章を書く「リズム」があって書くこと自体がとても楽しかったのだ。でも、それが全く感じられなくて暗闇の中を他者評価を基準に書き進めなければならなくなった。もちろん、多くの書き手は「他の人の評価や感想がなければ書き続けられない」ということを言ったりするが、約三年間、全然読まれなかった本を二、三ヵ月に一回作っていたのだから自分はもっと書けると思った。でも、祭囃子のようなリズムは消えてなくなり私は一人荒野でキーボードを打たなければいけなくなった。

いったい、どうやって自分が小説を書いていたのか。まるで、体で覚えたはずの自転車に乗れなくなったみたいでずっと不安で、疑問だった。書けば思い出すかと思ったがそれも違った。それどころか、プロットや詳細な場面設定を作れば作るほど、頭が騒いでそこからどんどん外れようとしてくる。文章も書けない。いったいどうすれば自分が自然と話を書けていたのかわからず悩みは深くなった。

でも、最近、ふと「もしかして、演技プランが不足している?」と、閃いた。そして、原稿の最初に【あらすじ】と【登場人物一覧】を書き、舞台脚本のようにした。ただし、プロットは作らないことにした。かわりに場面を作り、登場人物が中で話し、動くこと、それが語ることだという風にしたのだ。

そうしたら、何故か書けるようになった。しかも無意味にため息をついて間を稼ぐようなこともしなくなった。私は自分の持っていた語り方をもう一度手にしたような気がして嬉しかった。

そして次に、読書能力の再獲得も果たすことができた。偶然、こちらの記事を読んだ。

読書という行為に至るまで、多くの人が関わっていることを私はこの記事を読んで知った。というか、思い出した。

私の読書の芽となったのは幼児期に母親が連れて行ってくれた図書館と、そこで借りた紙芝居だ。絵を見るのはもちろんのこと、裏に書いてある文字、文章もお話の正解が書いてあるようで好きだった。自転車の後ろの座席に乗って図書館へ行くのは好きだったし、当時は公園にサルがいて、駄菓子屋もあり行くだけでワクワクした。でも、新しい読み物を借りた時が一番好きなお出掛けだった。

また、子ども部屋にあったおもちゃの中ではおままごとの食材よりもひらがな・かたかなの書かれた木の札が好きだった。それをじーっと見て、目で戦をなぞるのが好きだった。文字の不思議な形に興味を持っていた。母親は私が「まともな」ままごとをしないことに「この子はそういうものに興味がない」と思ったらしいが、別にままごと道具が嫌いだったわけじゃない。兄はそういう遊びに付き合わなかったし、私もそういう遊びを誘わなかったのでやらなかっただけだ。でも、形を目でなぞるのはとても好きだった。

習字は習い事の先生は嫌いだったが、文字を書けるようになったのはとても嬉しく誇らしいことだった。覚えていくということが解放にも思えて嬉しかった。電車や車から見える看板をつぶさに見て読める文字が増えることは何と自由で楽しいんだと、小学校入学前には思った。

小学校時代、私は友達がいなかった。一人で行く運動場は遊ぶ場が限られ、声を掛けることを知らなかった私は低学年時代は運動においてできることが減ったと思った。運動場は巨大な社交場なのだ。社交のできない子どもだったからいつも一人でいた。でも、小学校三年生の時、休憩時間に学校の図書館へ行くことを覚えた。きっかけは読書週間のスタンプカードで、集めれば相がもらえた。それで、たくさん本を読むということを覚えたからだ。これも、大人や図書委員に所属する高学年の子が企画してくれたのだろう。

さて、読書をするという趣味を持った私は、文字を習った頃のように自分が自由になれたと思って嬉しかった。自転車に乗ることを覚えた時と同じでどんどん読み、大いに楽しんだ。でも、それには終わりがあった。最初に戻るが、高校二年生の時、母親に進路の相談をした。その時、母親から「お兄ちゃんのことはわかるけど、あんたの行きたい大学に興味がない」とはっきり言われてしまったのだ。兄はもう大学進学を果たしていた。店じまいだ。私は自分の未来がなくなったみたいで悲しかった。追い打ちをかけるように父親がいった「夜間大学じゃダメなのか? オレがいった高校も夜間だったぞ」という言葉だった。別にダメではないが、目標はそこになかった。というか、そもそも自分はすでにこの時、親にも配慮をして進学目標を決めていた。その卒業後の進路も決めていての提案だったが、多分「女に大学などもったいない」と思ったのだろう。「うちはお金がない」「どうしてぜいたくを言うのか」「王侯貴族に産んだ覚えはない」「女の一人暮らしは許可できない」と言われた。当時の私は特に成績も問題なく、学校も大学進学を生徒に当然勧める学校に通っていたので他の進路を考えられなかった、そういう理由もある。でも、親はただ一緒に暮らしていれば子どもは親と同じ生き方を選択してくれると思ったみたいだ。全然子どもに興味がなく、何かと「ダメな子」として扱うのに、どうして同じ生き方を選ぶと思っていたのかわからない。また、サラリーマンやパート主婦というのは個人にまつわるものであって、子に渡せる身分や財産、制度ではないのに、同じにして身分相応、わきまえろという考え方もおかしなものだった。

そういう経緯で私は読書を得て、読書を失った。けれども、先程の「本は一人で読めないものである」という記事から自分が読書を得た経緯を思い出すことができた。母親の借りてくれた紙芝居、おもちゃの木の札、習字、学校図書館の催し、他にも絵本や雑誌、付録、看板、漫画、おかしのパッケージ、音読の宿題、アニメや特撮のOPやEDのクレジット…他色々。文字を読む経験を一つ一つたどりながら、私は読書という行為へたどり着いていた。最終的には自分でも小説や脚本を書いた。

先程の記事をもう一度読めば「自室にこもって一人読書」の時間があったことだって、母親も含めた他の家族の黙認があってできたことだ。今は自分で家事をしなければならないので、読書も小説を書くこともちゃんと時間を取らないといけないし、その時、他の家族に了承を得たりもする。子ども時代、親からほったらかしにされていたことはもちろんだが、そういう時間が持てない人もいるのだからその点は有利だったのだろう。

このことに対し、あらためて、感謝を…などとは私はいわない。なぜならば、私が破壊されてしまった読書能力とは「誰かと繋がる力」として機能していたものだからだ。あの時、「興味がない」と言われて一番何が恐ろしかったのか、お金を出してもらえないことや私に興味がないことが恐ろしかったのか、自分は他人まかせで浅ましくないかと何度も考えた。だが、違う。お前は孤独でこれから先、誰ともつながることはできないと、宣告されたようで怖かったのだ。親は少なくとも私が誰とつながるかをずっとコントロールしたがっていたので、この破壊が上手くいったことに喜んでいたと思う。だから、ありがとうという言葉は欺瞞過ぎて残念ながらいえないのだ。

かわりに、私は自分がコミュ障で学校や大人が求めるように友達が上手くできず、何でも一人でやってしまい協調性がないと指摘されたことを長らく悩んできたが、これからは「それはちょっと違う」と言えることを喜ぼうと思う。読書が誰かとの繋がりの末にあるのならば、間違いなく私はこの社会に生きている。名も知らない、その人の現在の生死も問わないが、確かに誰かが信じて送り出した本と、環境によって育まれた私の識字能力が出会い、そして読書する空間があってはじめてできることだからだ。私は確かに生きていて、本の扉を開くことで誰かと繋がっている。そう思うと、最初に台本を覚えられなくなった理由もわかる。演劇は共同作業だからだ。人と繋がる「リズム」にのってする作業だからだ。だから、孤独だと思っていた時代だって私はちゃんと誰かと繋がっていた。その発見と今まで探し続けたことに喜びを持ちたいと思う。

@aresan
成人済み腐、オタク雑感です。日記はこちら→アレさんのブログ simblo.net/u/zt5KHb