2024年2月11日(できればムカつかないで生きていきたいがしかし)

怒りの表出というものはひとそれぞれで。他人にぶつける人もいれば、自分の内部に閉じ込めて鍵を掛けるひともいる。暴力によって発散されることもあれば、酒や煙草や性に転化されることもある。その姿を見えにくくし、一時的な快楽に変換可能であるという理由から、怒りと依存性は相性がいいが、依存性の行きつく先は概ね破滅的であり、破滅は隠された怒りの復讐とも言える。

怒るな。というのが、他人の怒りに対する、周囲の普遍的な反応であるように思う。世界が思い通りにならず、じだんだを踏んで泣き叫ぶ子供に、大人はしばしば「そんなに怒っちゃだめだ」と諭す。だが、感情を抑止することは、他人にはもちろん、本人にさえ不可能だ。これには幼児も大人もない。大人とは、合理化を習得した幼児に過ぎない。殆どの怒りは常に、解決ではなく解釈と先延ばしを経て保留されている。

その抑圧が不毛で不可能である以上、怒るな。ということではなく、上手に怒ろう。というのが、怒りに対するぼくの提案だが、上手な怒り方とはなんだろう。ぼくの意見では、それは対話と表出だ。逆に言えば、その二つの不足こそが、怒りの正体であるとも言える。ロックンロールや物語における怒りの表現が人々にある種のカタルシスを与えるのは、それが結果的に対話と表出の不足を補完するからだと思う。

できればムカつかないで生きていたいのはやまやまだが、そうとばかりはいかない。ぼくもうまく怒れるようになりたい…。