2014年3月20日(ア・プリオリとしての映画)

「バッファロー66」「道」「ふたりの男とひとりの女」…。最近、弱男×慈悲深女を主人公にした映画が好きなんじゃないか?と自覚した。多様な映画があるように、多様な弱さがある。弱さが、自分のそれと共鳴しているな感覚がある。同気相求のような。

そんな折に、田村マリオ先生の「hole01」という電子書籍を読んだ。冒頭に収録された「臆病者とアリジゴク」がまた最高で、小説で言えば大谷崎潤一郎の如き凄みと哀切がある。ちなみに、これも弱男×慈悲深女の物語だ。

映画的趣向が、自分の内的な欲求を代弁している。ということがある。

「ザ・ファン」と「ルームメイト」。十代の頃、この二本を繰り返し観ていた時期があった。主演はいい仕事しているし、脚本もよくできている。しかしながら、地味だし、カタルシスはなく、後味は悪く、各部に粗がある。傑作とは言い難い。にも関わらず、傑作よりも数多く鑑賞した。

二本とも〈自分を許せない人間の末路〉を描いた映画だった。きちんと向き合うことをされなかった罪悪感や憎しみが、どのような形で表出するのかという具体例が、そこには描かれていた。

今。ぼくは内なる憎しみに対する自覚を促すということを目的の一つとして、小説を書いている。あの頃、わけもわからずに繰り返し観ていた映画に、ぼくが求めていたものを、今書いているというわけだ。

そんなわけで、数年したら多分、弱男×慈悲深女の設定での小説を書くことになると思う。これはア・プリオリなのだ。しかも、避けられない種類の。