怒りという感情を用いる時、ぼくは相手に対して〈こうあってほしい〉という願望を投げつけている。デッドボールだ。
そういう意味では、怒りという感情の発露は、誰かを操作するためのコントローラーの機能を備えている。例え義憤でさえもだ。
相手が悪ければ殴ってもいい。という極端な認識もあるだろう。最近までは、それが主流だった気がする。ストーリーには〈味方〉がおり〈敵〉がいた。〈こちら側〉があり〈向こう側〉があった。〈善〉があり〈悪〉があった。
でも現実では、それらは歪んだ鏡越しに向き合った、歪んだ二つの善悪に過ぎない。どちらが〈善〉でどちらが〈悪〉かは、ここではわかりにくい。多くの場合、どちらも善と悪の両方の側面を持ちつつ事態に参加し、相手を悪と呼んでいる。
対立を煽ることで金儲けする物語は、そろそろ限界を迎えてきている。面白いな。と思うのが「違国日記」のヒットだ。〈善〉もなければ〈悪〉もない。〈問〉に対する〈答え〉もない。ただ、生きようとする心の水面下に吹く風を描写しただけの、この静謐の物語が多くのひとに(セールス的に見ても)受け入れられたのは、やはり人々の求めるものが変容してきているのだと思う。他にも「私の少年」「今夜、すきやきだよ」「地図にない場所」など。
怒りたくもないし、怒られたくない。正義にも悪にもなりたくない。漆黒の珈琲のなかで、白い渦を巻くミルクの模様が好きだ。ぼくは、あんなふうになりたい。