2024年4月2日(映画による痛み)

 痛々しい映画を観られなくなって、大分経つ。昔は「時計じかけのオレンジ」とか「エル・トポ」とか楽しんで観ていたけれど、色々な理由から今はだめだ。

 理由の一つに、共感と感情移入によって、悲痛な物語に対して胸が苦しくなってしまう。という点が挙げられる。これについては、共感力が育ったという見方も出来る。これは加齢の良い点の一つだ。生きる経験の上で、他人への共感力が増してゆくということ。

 なのだけれど。ふとしたきっかけで「市子」という映画を観た。開始十五分でもう苦しかった。この映画に共感できないひとは幸せだろうな。と思った。主演の女の子が、昔の知り合いに似ているのがまた辛かった。顔だけじゃなくて、仕草や雰囲気や境遇まで似ていた。愛したいのに、愛せない。信じたいのに、信じられない。を全身で具体化したみたいな子だった。癒せない痛みと渇望が、彼女の中にあった。風の噂で、今は三児の親になっていると聴く。幸せにやっているといいな。

 過去に向き合うことは苦しいし、疲れるし、押しつぶされてしまう危険性だってある。それを避けるべく、悲痛な映画を観ないという状況にぼくはある。

 だが、他者の痛みへの共感によって、自らの痛みをようやく自覚することができる瞬間というものがある。痛いという感覚は、自分への救難信号であるとも言える。ほんとうならば、ぼくは自分自身を助けに行かなくてはならないのだろう。

 とても痛い信号を頼りに。