読書メモ1

『帰郷』 大仏次郎

肉親だからといって余計に甘えたり憎んだりする日本人の感情だな。あれがおれはいやだ。それだけは卒業したつもりだ。隣の他人とどう違うのだ。


『アストリッドとラファエル』 仏ドラマ

スペースは限られていますから。不必要な知識を抱え込んでいては、重要なスペースを確保できません。(S1-2「パズル」)

神の存在を信じる根拠はありません。存在しないという根拠もありません。神の存在を否定するのは、肯定するのと同様に、一つの信仰です。(S3-2「死を忘るなかれ」)


『PEANUTS』 チャールズ・M・シュルツ

ボクが思うに、真剣でさえあれば何を信じるかは問題じゃない!(ライナス・ヴァンペルト)


『ジョン・フォードの「あわれ彼女は娼婦」』 アンジェラ・カーター

もっとも自然な愛こそ、もっとも打ち明けてはならない愛であることを彼女は知っていた。


『いつかそのうち』 ジェームス・パーディ 

誰もがしじゅう言っていた通り、愛こそは彼がもって生まれた才能なのだ。

だけど大きな間違いの連続から成る人生のなかで、ひとつの間違いが何だというのだ。


『アート・オブ・ベースボール』 ドナルド・バーセルミ

だが、彼らが何よりも讃えたのは、それがなければ芸術であれ野球であれいっさいの意味を失ってしまう、情熱だったのである。


『臆病者とアリジゴク』 田村マリオ

おれは確かめなければ

傷つき不安にからめとられた脆弱な魂は

永遠に孤独なのか


『ウィーツィ・バット』 フランチェスカ・リア・ブロック

「あんたが病気になったのは、悪いことしたと思ってびくびくしてたからだよ」

愛と病は、どちらも電気みたいなものだとウィーツィは思う。そのふたつはいつも近くにあるー見ることも、嗅ぐことも、きくことも、触れることも、味わうこともできないけれど、空気の流れのように、身近にある。そして、あたしたちは選べる。いつも、愛の流れにプラグを差しこむことを選べる。

「それからずっと幸せに」の意味はわかんないけど…「幸せに」の意味ならわかる。ウィーツィはそう思った。


『平和の国の島崎へ』 濱田轟天×瀬下猛

傷ついた者、病んだ者、「他者からの手助けが必要な者」が最初に乗り越えるべき壁は、他者に対して「助けて」ということ。この壁を乗り越えられた者だけがそこから抜け出す機会を得ることができる。生き残れる者の条件はたったそれだけだ。「たったそれだけ」だが、それが初めてのものには途方もない試練になる。

大切なのは「やり取りを続けること」で「言葉」じゃない


『私、オルガ・ヘプナロヴァー』 チェコスロバキア映画

いつか嘲笑と私の涙を償わせる。


『心がつながるのが怖い 愛と自己防衛』 イルセ・サン

自身の内面を守る強力な自己防衛の戦略を持ち合わせている人は、外部に対し自己防衛する必要はあまりありません。

それまでの人生で喪失を体験し、それを感じるのを避け、きちんと対処してこなかった人は、その悲しみを抱えたまま生きているといえます。そういう人にとって、新たに何かを失うのは大きな恐怖のはずです。


『幸せなひとりぼっち』 スウェーデン映画

今を必死に生きるのよ。


『ものぐさ精神分析』  岸田秀

抑圧されたものは必ずいつか回帰する。

ここには、A・フロイドの言う攻撃者との同一視の機制も働いていた。たとえば、幽霊が恐ろしい子供がみずから幽霊のまねをすることによってその恐怖から逃れるのがこの防衛機制である。

しかし、防衛機制というものはすべて一時逃れにしか過ぎず、そのようなことで自己同一性が回復されるはずはなく、また、屈辱感が解消されるはずもなかった。

おのれの自己同一性を失った者は、他人にとっての彼の自己同一性の重要性に無感覚になるのである。

人類が滅亡せずにすんでいるのは、子どもの出産につらなるいわゆる正常な性行為なるものを一つの文化としてつくりあげ、それを各人に強制することにだいたいにおいて成功したからである。

人間の性欲に発情期がなく、年中いつでも性行為が可能なのは、それが造花だからであると思う。

言うまでもなく、男らしさとか女らしさとかは、生物学的属性ではなく、社会的身分である。

近代においては、両性の持続的関係、ひいては結婚を主体的個人としての両性の恋愛という幻想によって支えようとする努力が払われてきている。しかし、この幻想は男女をしてたがいに求め合わせるのには非常に有効だが、その関係を永続的に支える幻想としてはあまり成功していないようである。

言うまでもなく、恋愛は幻想である。

また、恋愛にしても、正しい真実の形式といったものがあるわけではない。その形式以外の恋愛は間違っているというわけではない。

生命現象は、意味のコミュニケーションの過程として把握する必要がある。生命とは、環界にコミュニケートする存在である。

ある人について、あいつはハイエナのような奴だというとき、これは単なる比喩ではなくて、いかに生きるべきかの問題に関して彼とハイエナとの見解が一致しているということなのである。

人間の欲望の満足は、自己保存または種族保存のめために必ずしも必要ではない。それどころか、かえってその目的のために有害である場合も多い。人間は無益に自他の生命を殺傷する唯一の動物である。

言語は、ある一定の錯誤にある一定の意味を付与することによって、その錯誤を共同化したものであり、いわば共同錯誤である。

個人のもつイメージをあますことなく言語化することはできない。つねに言語化されない部分が残る。言語化されないということは、共同化されないということである。

人類の文化は、ずれてしまったイメージと現実との隔たりを何とかして縮めようとした努力の集積であると考えられる。

蜜蜂のコミュニケーションに誤解はあり得ないが、人間の言語的コミュニケーションは誤解に満ちている。

狂気とは、表現されて誰にも共有されなかった私的幻想である。

社会的現実とは、多かれ少なかれオブラートに包まれた現実、疑似現実である。

あらゆる人間集団は、共同幻想、いいかえれば、そのメンバーの私的幻想を共同化したものに支えられている。共同幻想が崩壊すれば集団は崩壊する。

そもそも二人の人間のあいだに関係が成立し得るのは、二人がおのおのの私的幻想を共同化して共同幻想を築き、それをあたかも現実であるかのごとくたがいに演じあうことによってである。

精神病というのは他人から貼りつけられるレッテルである。他人から貼りつけられるしかないレッテルを、そのまま自分だと本心から信じる者がいたとしたら、それこそおかしい。

時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。時間と空間を両軸とするわれわれの世界像は、われわれの悔恨と屈辱に支えられている。

現在が現在として充足しているならば、時間は不必要かつ不可能である。そうでないがゆえにわれわれは、犯行現場に必ず立ち戻ると言われる犯人のように、多かれ少なかれ過去に釘づけになっていて、つねに過去をもう一度やり直したがっており、そして、過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、過去から現在へと流れる線の延長線上に未来という時点を設定したのである。未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去に過ぎない。

自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。

自己嫌悪は、容易に他人への嫌悪と軽蔑に転嫁し、また、それを支える基盤となるのである。自己嫌悪は、内的葛藤の状態であり、内的緊張を高める。その緊張の緊張の解消のために、嫌悪が必然的に他人に投影されるようになる。

われわれは任意にどのようなセルフ・イメージでももつことができる。したがって、われわれのもっているセルフ・イメージは、われわれの実態の反映でなく、われわれにとってもっとも好都合なセルフ・イメージである。

自分は子どものために身を犠牲にしたという親の判断は、子どもに対するその親のどういう期待ないし要求を正当化するのに必要か、と問わねばならない。答えは明らかである。子どもを犠牲にし、利己的に利用したい欲望の強い親ほど、自分は子どものために身を犠牲にしたと思いたがるのである。

攻撃欲を正当化するためにもっとも都合がよいのは、「正義の味方」というセルフ・イメージである。

歴史が証明する通り、この世の悪事の殆どは、「悪人」に「正義の鉄槌」を下す「正義の味方」がやらかしたものである。歴史は、善の名でなされなかった悪をいまだかつて知らない。

ある不当な欲望を正当化する必要があるとき、そのためにつくりあげられるのは、それと正反対のセルフ・イメージである。

邪悪な攻撃的サディズムを正当化するためには、自分は正義の味方であるとか、おとなし過ぎるというセルフ・イメージが必要であり、いちばん都合がよいのである。つまり、セルフ・イメージと客観的な姿とは、逆比例の関係にある。速い話が、傲慢なものほど自分を謙虚だと思っており、謙虚な者は自分を傲慢だと思っている。


『続・ものぐさ精神分析』 岸田秀

この伝染病の基本要素である、他人(他の生命)を単なる手段・目的と見るあくなきエゴイズムと利益の追求。不安(劣等感、罪悪感)に駆り立てられた絶対的安全と権力の追求、最小限の能力で最大限の効果をあげようとする能率主義はいったんその方向に踏み出せば、そのあとは坂道をころげ落ちる雪ダルマのような悪循環がかぎりなくつづくのみである。(伝染病としての文明)

自己は自分の生物学的生命のほんの一部しか代表しておらず、したがって、国民のほんの一部の者の利益しか代表していない政府が不安定であると同じ意味において、必然的に不安定である。(死はなぜこわいか)

われわれの自己の存在は他者によって支えられている。わたしをわたしと認めてくれる他者が一人もいなくなれば、わたしはわたしでなくなる。(死はなぜこわいか)

われわれの自己は、本来、自分だけのものであり、どこにも所属していない。われわれはそのことに耐えられない。そこで、われわれの自己、他の人びとの自己を包括するより大きな全体的自己として国家を形成したのである。われわれは国家のなかに自己の永続性の保証を見る。そうできるためには国家は永遠でなければならない。(死はなぜこわいか)

永続性、不滅性の宗教なしには、いかなる社会集団も存在し得ないからである。その背後にあってこの幻想を支えている死の恐怖を過小評価してはならない。(死はなぜこわいか)

人間だけが、現実的に有益な目的に役立たなくても憎悪から他の人間を殺すことができるのは、人間の攻撃性が死の恐怖に発しているからだと思う。すなわち、ほかの人間を殺し、死を他の人間へと移すことによって、自分は死を免れようとするのであろう。(死はなぜこわいか)

物欲にせよ、攻撃欲にせよ、際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は一つしかない。それは、われわれが、われわれの自己が幻想であることを知ることである。そして、死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かもしれない。しかし、ほかに道があるであろうか。(死はなぜこわいか)

どのような集団も、それが集団として成立するためには、一つの基本的な共同幻想を必要とする。(血縁幻想)

血縁幻想がすべてにわたる基盤となっているため、日本人は、他人同士で集団を結成する場合も疑似家族的形態を取らざるを得ない。(血縁幻想)

「人類みな兄弟」というのは、戦争中の「八紘一宇」のスローガンの言い換えに過ぎず、かつて日本を誤りに導いた道である。(血縁幻想)

性格神経症に関して言えば、経験の欺瞞の結果、同種の経験が強迫的に反復されるようになる。その強迫的反復は、経験の欺瞞が暴露され、当人が真実を認識するまでつづく。(アメリカを精神分析する)

ある集団の中で現実と見なされているものすら、幻想にすぎないのであって、ある集団における冷静な現実主義者は、別の集団では熱にうかされた妄想狂の範疇に入れられるかもしれない。(アメリカを精神分析する)

集団の共同幻想が幻想であることに気づかないのは、その共同幻想におのれの私的幻想を共同化している者、すなわちその集団の成員のみである。(アメリカを精神分析する)

人間の食欲は、餓死しないために栄養分を摂取したいという欲望ではない。もしそうなら、お菓子なんか製造しないはずである。(マニアについて)

人間のある営為がマニアの趣味と見なされ、ある営為が「有用なまじめな仕事」と見なされるその違いは、ひとえに、その営為が当の社会のなかでどれほど共同化されているかによるのであって、その営為それ自体の内容には関係がない。(マニアについて)

言ってみれば、資本主義社会とは、金マニアがつくっている社会である。(マニアについて)

神の幻想にしても、この幻想が必要であったのは、人間が自我というものを築いたため、この不安定な自我の最終的支えとして絶対者を必要としたからであると、わたしは考えている。(ユングの原型について)

なぜ人間は性的に異性を求めるかという問題と、なぜ人間は性的に同性を求めるかという問題とは同じである。(役割としての性)

われわれは、人格発達の過程において、自分が男または女であると信じさせられてゆくのである。(役割としての性)

ここで強調しておきたいことは、このときのわれわれの男(女)としての自己は、かつての全体性自己からその半分が失われた部分的自己であるということである。(役割としての性)

人間の性欲が、かつて存在し、今や失われた全体的自己を回復しようとする企てであるかぎりにおいて、性は人間にとって、不可避的に退行現象として現れる。愛し合う二人は、世界が二人のために存在しているかのような自己中心的、幼児的誇大妄想に陥りがちだし、その話しぶり、ふるまいはどこか子供じみている。性は、人間にとって本質的に種族保存のためのものではなく、遊びなのである。(役割としての性)

つまり、男をして、本来はやらずにすんだ過重な労働を引き受けさせるために、男の性欲を遮断し、その対象である女の肉体を商品化し、商品価値をもった女の肉体を得るためには、それに見合う価値を生む労働をせざるを得なくしたのである。(性差別は文化の基盤である)

人類の最初の集団である家族の成立、それを支える家族制度(婚姻制度を含めての)そのものが、女の肉体の商品化を基盤としていた。(性差別は文化の基盤である)

性行為をすることを「許す」、「あげる」、「与える」、「させる」、「やらせてあげる」、「捧げる」などの言葉で言い表す女がいるが、そういう女は、自覚しているにせよいないにせよ、自分の肉体を男の性欲を満足させるための道具、商品とみなしているのであり、売春婦のように露骨に代金は取らないにせよ、その精神において、売春婦と変わりはない。彼女は、その代償として、男が自分をずっと愛してくれるとか、責任を取って結婚してくれるとかのことを求めている(性差別は文化の基盤である)

そして、女の肉体が商品化されているかぎり、女にとって、性行為は不可避的に必然的に屈辱である。(性差別は文化の基盤である)

動物の雄が、人間の男が女に対してするように、雌をゆえなく蔑視するだろうか(性差別は文化の基盤である)

人間の性的満足にとって、生理的快感は本質的なものではない。(サディズムの起源)

したがって、性的満足を得るためには、私は、主体としての他者を必要とし、その結果起こる他者の主体と私の主体との衝突を解消するため、いずれかの主体を消し去らねばならない。他者の主体を消し去ろうとするのがサディズムであり、私の主体を消し去ろうとするのがマゾヒズムである。いずれの主体を消し去っても、そのめざすところは同じであり、とにかく、他者と私とがいる場面のなかで一つの主体のもとでの全体的自己の回復が演じられればよいわけである。サディズムとマゾヒズムとは、一見正反対のようであるが全体的自己の主体を自分の側にとどめておくか、相手に付与するかの違いしかなく、マゾヒストが相手に付与した主体は、マゾヒスト自身の主体であって、相手その人の主体ではない。(サディズムの起源)

マゾヒストは、偽装されたサディストでしかない。(サディズムの起源)

サディストもマゾヒストも、その性的興奮は自分一人の自閉的世界のなかをめぐっているに過ぎない。(サディズムの起源)

サディストが相手のうちに見たがる恥と屈辱は、もともとはサディスト自身が感じていた恥辱と屈辱であり、相手になすりつけることによって、おのれは恥と恥辱から免れようとしているのである。(サディズムの起源)

要するに、サディズムは、とくに男の生物学的本能でももちろんなく、一部の異常な淫乱狂の現象でもなく、自己というものをもつ人間の宿命なのである。個人の主体性と言うものに価値をおく文化は必然的にサディズムの文化であり、その中での男と女(男と男、女と女でもかまわないが)の性関係は不可避的にサディストとその性対象にされるものとの性関係である。(サディズムの起源)

家父長制の男性中心文化においては、主として男がサディストの役割を演じ、女はサディズムの対象にされてきた。(サディズムの起源)

個人は、箱の中に石が存在しているような意味で世界のなかに実体として存在しているわけではないから、彼の位置に規定してくれる他者が一人もいなくなれば、何者でもなくなり、無に転落する。(近親相姦のタブー)

母親とは自我の起源である。いやむしろ、人間は自我と言うものをもち、その自我は空中に宙ぶらりんにしておくわけにはゆかぬから、何らかの基盤が必要であり、その最初の基盤、起源として、母親、ついでは父親と言う社会的身分ないしは役割が創設されたと言ったほうが正確である。(近親相姦のタブー)

要するに、鉄の固いとか錆びるとかの性質と同じような意味での客観的実在として、性格というものは存在しているのではないのである。(性格について)

「客観的に」性格を検査しようとするあらゆる性格テストは無意味である。(性格について)

世間の人々は金に汚い奴ばかりだと嘆いている者がいるとすれば、それは、当人自身が人を金で動かそうとする汚い根性の持ち主なのである。(性格について)

人間は、木が森に所属するような具合に集団に所属するのではなく、厳密に言えば、いかなる所属も「仮りの」ものでしかない。(性格について)

要するに、親は、自分の感性、人格、器量、特性などの程度以上のしつけを子供に与えることはできないのである。(しつけについて)

ある価値を信じているからこそ、人間は他人の生命、幸福はおろか、自分の生命、幸福さえ軽んじることになるのである。(価値について)

戦争ほど露骨な形でないにせよ、資本主義もかずかずの被害を人類に及ぼしているが、その資本主義にしても、金の幻想的価値を信じている人たちに支えられているのである。(価値について)

資本主義が成り立っているのも、一部の「悪辣な」資本家が「愚かで弱い」民衆を金の力で支配しているからではなく、民衆も金の力を信じているからである。金の価値を信じていない者を金の力で支配できるわけはない。(価値について)

人間のみが幻想のなかに住んでおり、したがって人間のみが緊張する存在であり、したがって人間のみに緊張からの解放があり、したがって人間のみが笑うのである。笑うのは笑う側の人間の問題であり、笑われる側に、笑いを起こさせる客観的な性質があるわけではない。(笑いについて)

挨拶としての笑いは、「わたしは緊張していません。あなたを信頼して安心しています」という意味であり、自発的な笑いが緊張からの解放という意味をもっているからこそ、笑いをそのように用いることができるのである。(笑いについて)

危険なのはむしろ、人間の攻撃性そのものより権威への服従であり、感受性の欠如である。(怒りと憎しみ)

人間は平和的であると信ずれば、人間を平和的にできるというわけにはゆかない。逆に、残忍な者ほど、おのれの残忍さを直視することを恐れて、そこから眼を外らし、人間は本来平和的だと信じたがるものである。(怒りと憎しみ)

自尊の幻想が崩され、おのれの無力がさらけ出されたとき、怒りが生じる。(怒りと悲しみ)

怒りとは、さらけ出されたおのれの無力を否認し、崩された自尊の幻想を回復しようとする衝動である。(怒りと悲しみ)

怒りっぽい人とは、人一倍攻撃エネルギーをたくさんもっている人ではなく、その自尊心を支えている幻想があまり共同化されていない人である。(怒りと悲しみ)

恋人との別れ、愛する人の死が悲しいのは、彼と自分との愛の関係がいつまでも変わりなくつづくという幻想をもっているからである。(怒りと悲しみ)

悲しみが、同じく幻想の崩壊に対する反応である怒りと異なっているのは、この崩壊をもたらした原因に対するおのれの無力が容認されている点においてである。(怒りと悲しみ)

逆に言えば、表現すべき本当の自分が存在しないのだから、彼は演技することしかできなかった。しかし、演技することしかできないとき、それはもはや演技とは呼びえないだろう。(三島由紀夫論)

孤独な人間はおのれの孤独のなかでエゴイストとなり、ほかをかえり見るゆとりを失う。彼がその孤独から逃れようとして他者を愛するとき、その愛は必然的に相手を貪り尽くさんとする溺愛となる。(シニシズムの破綻)

批判は、批判すべき現実のある側面をただあげつらっているだけでは有効なものにはなり得ないからである。批判すべきその側面は批判者と決して無関係ではない。無関係なら、そもそもの側面を批判すべき側面として把えることはできなかったはずである。必ず、批判者自身のなかに、その側面と絡み、その側面を支える何らかの要素が存在している。現実のその側面と、それを支える、自分自身の中の要素とをともに摘出し、ともに乗り越えてこそ、はじめて批判は有効であり得る。(シニシズムの破綻)

甘えとは、すでに他者との分離を発見したのちに、この分離を消し去ろうとする魔術的試みであり、あたかもそれが存在していないかのごとくふるまうことである。(太宰治論序説)

甘えの態度が固定した者は、その後の自我の発達において致命的な障害を受ける。甘えとは他者からの分離、すなわち自我の存在の否認なのだから、自我が発達しにくくなるのは当然である。彼にとって、自我は恥部であり、言わば、その存在を世間に知られたくない隠し子のようなものである。(太宰治論序説)


『官僚病から日本を救うために』 岸田秀

ある集団が自閉的になると、その集団以外の人間は人間ではなくなる。(官僚病はどのような組織にも発生する)

批判する人は弾き出されるわけですから、共同体そのものは変わることなく残ってしまうのです。つまり、人は入れ替わってもシステムは残ってしまう。(官僚病はどのような組織にも発生する)

どのような真理も、「ほどほど」の限界を超えれば誤謬になります。(現実という幻想)

生きていることに価値があるという幻想が必要なんですね。そして、その価値が正しいか間違っているかということではなく、その価値を自分で選べるという意味でわれわれは自由なんです。(現実という幻想)

「個人を対象とする精神分析を根拠なく集団に応用している」とよく批判されるのですが、個人の人格構造も集団の社会構造も幻想に基づいて人為的に構築されるもので、同型・同質なんですよ。(思想の原点)

人間の母親にも母性本能がないわけではありませんが、壊れるんですね。いずれにせよ、人間の母親は、母性愛の神話がなければ、子供は育てられませんから。(来生たかお、岸田秀と語り合う)

働き蜂が働くのは遺伝ですが、人間が働くのは文化ですから。(来生たかお、岸田秀と語り合う)

人間は文化をつくらなければ生きていけない。やっぱり、他の生き物よりは下等ですよね。(来生たかお、岸田秀と語り合う)

人間の心の理論は判りやすいということが必要不可欠な基本的条件です。判りにくい理論は、たとえ間違ったことを言っていなくても、判りにくいというだけで理論として失格であって、一部の学者の自己満足に役立つだけです。(来生たかお、岸田秀と語り合う)

本当は、そうした名誉欲の強い人が、一番、死の恐怖を抱いているんじゃないかと思うんです。(来生たかお、岸田秀と語り合う)

「政府が嘘をついているのだから、われわれが嘘をついても文句を言われる筋合いはない」と無意識に思っていて、そこから道義が崩れてゆくのだと思います。(日本の「劣化」の原因)

親だって人間で、自我があり、子よりも自分のほうが大事なのは当然であって、自我の何らかの目的につながっていない限り、なかなか子育てをする気になれないでしょう。(親が憎くても親孝行はすべきです)

欺瞞は一つ通用すると波及するのです。ごまかしが通る社会だとみんなが思い始める。(人間の原風景に佇む)

人間は劣等感や敗北感があると、それを補償するために優越感を必要とするのです。(ギリシア文明は誰が創ったか)

「どちらが優れているか」という論争自体が、極めて一神教的ですからね。(中国の害毒から日本の山河を守れ)

好ましくない事件、すなわちトラウマを正当化すると、個人も国家もその正当化に支えられなくなることになるから、それを維持しなければならなくなり、そのため、同じようなことを脅迫的に繰り返さざるを得なくなります。(日米関係の未来)


『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』 今井真実

そもそも食の好みを他人が買えようだなんておこがましいかもしれない。たとえ、家族間であってもだ。

パートナーや子供の笑顔を思い浮かべ、料理するとき、それは幸せな時間でもある。しかし、期待した反応と違うとつまらなくなってしまい、それが続くと「虚しさ」に繋がっていく。だからこそ、私は自分の食べたいもの、作りたいものから今日の献立を決める。私の幸せは、私が守る。これが料理をする人の特権だ。

「料理は楽しい」という事を、すべての人に伝えていきたい。そのためにレシピを作る。それが私の仕事だ。毎日の料理が幸せな作業であれば、日々は薔薇色に包まれる。全ての人が少しずつ愉快な気持ちになれば、世の中は明るくなる。


『窓から逃げた100歳老人』 ヨナス・ヨナソン

アランは、すぐ間近に起こるかもしれないことに望みを(ついでながら恐れを)抱く男ではない。起こることは起こる。あれこれ予測を立てても始まらない。

アランはスターリンの怒りっぽさにうんざりしてきた。べつにたいしたことでないのに、このご老体は顔を真っ赤にする。

アラン・カールソンは人生に多くを求めない。ベッドがあり、食べるものがたっぷりあり、何かすることがあり、時々は一杯のウォッカがあればいい。これだけの条件が適えば、たいていのことは我慢できる。

「いいかい。物事はなるようになる、それがふつうだ、ほとんど必ずそうなんだ」

ヘルベルトは顔を赤らめ、そんなにほめないでくれ、バカがバカを演ずるのはむずかしくないと言った。アランは言った。むずかしいんだと思っていたよ。これまで出会ったバカはみんな逆のことをしようとしたからね。


『国を救った数学少女』 ヨナス・ヨナソン

「死にやしないのに死にそうだなんてベソベソしてないで、いいように考えなさい」


『天国に行きたかったヒットマン』 ヨナス・ヨナソン

これからやろうとすることを、するべきだったか否かを見極めるためには、実際にやってみるしかない。


『曙光』 フリードリヒ・ニーチェ

この世の中に生まれる悪の四分の三は、恐怖心から起きている。 恐怖心を持っているから、体験したことのある多くの事柄について、なおまだ苦しんでいるのだ。それどころか、まだ体験していないことにすら恐れ苦しんでいる。 しかし、恐怖心の正体というのは、実は自分の今の心のありようなのだ。もちろんそれは、自分でいかようにも変えることができる。自分自身の心なのだから。


『ご飯はわたしを裏切らない』 heisoku

いつかすべてが古代になるんだ。


Filmarksより

最終盤に涙がボロりと落ちる強烈なメッセージを喰らった時、観て本当に良かったと思えました。子供という最もイノセントな存在を愛し、守り、より良い世界を見せようと努力することは誰がなんと言おうと崇高なこと。だからこそこの世界は守る価値がある、そんな思いを声高に宣言するラストの展開には心底感動しました。明日から優しくなろう、そう思える映画は素敵な映画。(「ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生」)


『光だけが光じゃない』 SION

光だけが光じゃないことだけは 太陽より知ってる


『日本文化の核心』 松岡正剛

日本文化はハイコンテキスト(コミュニケーションの背景や文脈の共有されている割合が高い状態。コミュニケーションの背後に共通認識があるため、言葉で示さなくてもなんとなくで意味が通じることが特徴)で、一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂があるのです。


『内なるネコ』 W.S.バロウズ

ネコは精神的な仲間、おなじみさんとして生まれ、以来ずっとその役を担っている、というのがわたしの推測だ。

古来の疑問を理解するには、それを現代に持ち込んでみること。

家畜化を受け入れたネコと、受け入れなかったネコで、分裂が生じたはずだ。

アナグマははしゃいで遊びたかっただけなのに、政府支給の0.45口径で撃たれた。触ってみろ。そいつの身になってみろ。感じてみろ。そして考えてみよう。どっちの命が価値あるものか。アナグマか、あるいはこの邪悪な白人野郎か。

魔法の場はブルドーザで撤去されつつある。(中略)そしてモーテルやヒルトンホテルやマクドナルドに道を譲るにつれ、魔法の世界すべてが死に絶える。

ネコのけんかでは、攻撃者がほとんど常に勝者なのを見てきた。ネコは不利とみると、迷わず逃げる。犬は愚かにも死ぬまで戦う。

白ネコは自分自身だから。白ネコから隠れることはできない。白ネコもおまえと一緒に隠れるから。

完全に正直な自伝を書ける人はいないと思う。たとえ書けても、詠みかえすのに耐えられる人は絶対にいないはずだ。「わたしの過去は悪の川」

「ぼくを愛してくれる人のためなら、だれにでもなれるよ」と彼は答える。

ネコを捕まえて殺すのにかけている費用で、住み家と食べ物を配る人を雇える。

わたしたちは内なるネコ。一人では歩けないネコ。居場所はひとつしかない。