鳥山明先生がお隠れになった。あの巨大な才能が、なんの圧迫感もなく世界に寄り添っていたという事実に、ぼくらは喪ってから、はじめて気づくことになった。
おおらかな善悪観があったのだと思う。それは画風同様、極めて洗練されていた。物語のなかで正義を語らなかった。押しつけがましさというものが、まるでなかった。その少しシャイで飄々とした達観が、親しみやすさとなって、いつも傍にいてくれた。
殆どすべての人が、様々な形で鳥山先生の影響を受けている。間接的な影響も含めれば、その規模は人類の過半数を越えるだろう。
強さのインフレばかりが取り沙汰されるきらいのある「ドラゴンボール」だがそれは人間関係の豊かな描写が、あまりにも自然に洗練されすぎていたというだけの話だ。デザイン同様、それはプロの省略だった。サタンと魔人ブウ。クリリンと18号さん。ベジータとブルマ。魅力的な人間関係は、枚挙に暇がないが、実は開示されている情報は非常に限定的だ。にも関わらず、誰もが自分にとっての特別なキャラクターを抱いている。そして。
ぼくはピッコロさんに特別な影響を受けた。魔の化身として産まれた瞬間から、孤独と復讐の運命を負っていたかつての大魔王を癒したのは、優しい心を持った甘えん坊の少年だった。親子関係に強いコンプレックスのあったぼくは、ピッコロさんに自分を重ねたし、悟飯に自分を重ねた。死の間際に分かり合う彼らを見て、ぼくのなかの親子観と善悪観に、一生ものの衝撃が走り、楔が打たれた。美しい。と思った。
2022年に公開された「ドラゴンボール超スーパーヒーロー」は、そんなぼくにとって最高傑作だった。基本的に戦闘力を競い合う構造になっているドラゴンボールという物語で、強さとは別の魅力を持つキャラクターが集合する本作が、とにかくうれしかった。具体的に言うとトランクスと悟天。クリリンと18号さん。ガンマ1号とガンマ2号。そしてピッコロさんと悟飯。最終決戦に集合するこの人選には、この映画独特の意味がある。彼らは全員がバディ関係にあり、そして「最強」を目指していない。強さのみを追求しないドラゴンボールは、優しさの結晶みたいな物語だった。相変わらず、ピッコロさんと悟飯は仲良しだった。ピッコロさんは昔よりも、よく笑うようになっていた。
鳥山先生は、この映画に対するコメントでピッコロさんを「一番好きなキャラクター」と明言されていた。うれしかった。シャイで、まじめで、どこかユーモラスで、偽悪的でお人好しで、孤独だけど、心の底に深い信頼を持っている。これは勝手な想像でしかないけれど、ピッコロさんは、鳥山先生ご自身を一部反映したキャラクターであるように思えた。
ああ。世界中のひとたちがそうであるように、ぼくもやっぱり、鳥山先生から強く影響を受けている。これからも小説を書いてゆくのだけれど、いつも心にピッコロさんを忘れずにいたい。ほんとうに優しい人なんだから。
ここまで書いて、涙が出てきた。合掌いたします。鳥山明先生、ほんとうにありがとうございました。