悲しい、苦しい。というぼくの感情が、希望を求めている。悲苦は、希望の欠乏状態に与えられる別名だ。もしも、希望という概念が存在しない時、そこには悲苦も存在しないだろう。例えば、ぼくの悲しいは、自他を健やかに愛せるようになることを希望しているし、ぼくの苦しいは、他者に対して心を開くことを希望している。その困難さ故に、希望は悲苦に擬態する。
このように、悲苦について深く考える時、ぼくは希望について深く考え、そして求めている。それらを経由して希望に至りたいという動機から、ぼくは悲苦について書き、また悲苦とともに暮らしているとさえ言える。
悲苦は過去形だったり、過去から持続する現在進行形だったり、まだ訪れていない未来への予測変換だったりするが、希望を求めているという点で、すべては共通している。もしも心が悲苦でいっぱいなのであれば、同時に希望でいっぱいであるということなのだ。希望。ぼくは何が欲しい?
希望はいいものだ。決して死なない。アンディはそう言ってた。ぼくもそう思う。そう思いたい。