友人と日記を書く約束をした。
なんかの歌詞に壮絶な殺し文句があり、そんな表現に触れて脳汁を出すのが幸せだと。
文章を書きまくっていればいずれは脳汁が出るような表現を自炊できるんじゃないのか。だから、お互いなんか書くのがいいんじゃない?それがベストなんじゃない?という話で、そのなんかが(なんでだっけ)日記だった。
日記は昔から書こうと思い立っては2日と持たずに放置してきた記憶が何回かある。
書きたいことが無いわけではなかった気がする。愚痴やら「そうじゃないだろ」と思うことだったらひねもす脳を巡っている。久しぶりに訪ねた街を歩いて、実はその街のことをなんも知らないよなとか格好つけたことを考えている。ただ1日の終わりにまとめて書くという形式が僕に合わなかったんだろう。学生の時分、思いついたことをそのまま垂れ流す暇があった時、僕は所謂ツイ廃だった。だから後でまとめて、が出来ないだけ。賃労働をして、思いつきをそのまま垂れ流す暇がなくなってから全然投稿をしなくなった様子からも伺えることだ。
しかし、「後でまとめて」がなんで出来ないのかな。
これを書くキッカケになった友人の日記を読むと、どこかに出かけた時、出かけた先の情景、その時考えたこと、一緒にいた人のこと、いれなかった人のこと、事細かに書かれている。
すごいなぁと思う。短編映像作品を観るような、青とオレンジの表紙が付いていそうな、そんな文章だ。一方的に読ませてもらうのが、なんだか申し訳なくなるような(だから一念発起してコレを書いている)。
日記ってこういのうのでいいんだっけ…。
「後でまとめて書く」が出来ないのではなく、正解とか目的を措定しないこと全般が出来ないだけなのかもしれない。
嗚呼、自主性の無さ。