必要があって、パスポートを取得した。
戸籍謄本を取り寄せて、申込用紙を書いて、本人が証明できる書類を持って、顔写真を持って申請。
後日、事務手数料を支払って受け取り。
パスポートセンターは、センター自体もそこに行く道のりも混み合っていた。人の群れだ。東京に住んでいて、東京で仕事をしている以上、人混みなんて慣れっこで大した感慨もわかないはずだったが、パスポートセンターに行く時だけは何か違った。
多分、身分を証明する、僕が僕だということを証明しにいくという、そういう緊張感のせいだ。
人を見る度に、全員が違う人生を、時間を生きてきた違う人間なのだということを、強く意識してしまった。
違う顔、違う身体、違う時間、違う人生。違う人間。
気持ちが悪いというか、途方も無いなという気持ち。
自分の生きてきた数十年だって長いし、もう全部は思い出せない。それがこんな人数分、全く違う時間が存在したわけで。
思いやりだとか、他者への想像力だとか、なんとも途轍もないことを要求するなと思う。
僕は僕の顔、僕の身体、僕の時間、僕の人生からしか、世界と関わることが出来ない。それが僕の分際だ。
パスポートに印刷された自分の顔写真を見る。なんで身分の証明に強力な根拠に顔が使われるんだろう。人間の認知力が顔の読み取りに特に強い、みたいな話なんだろうか。
顔は生まれ持ったものだ。でも、それだけではない。
最近かけたパーマ。今日剃った髭。面倒で途中で辞めてしまった歯列矯正。子供の時転んで出来た右瞼の傷。
僕が僕の時間の中で選んできたものもまた、僕を僕だと証明していた。