卒寿

asanatto
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日付が変わって2/6、母方の祖母の90歳の誕生日となった。

母方の祖母にとって私は初孫だ。共働きの両親に代わって私の面倒を見ていてくれたのは母方の祖父母で、なので私はいわゆる「実家のような安心感」を祖父母宅でも得られることができる。むしろ建て替えをしていないだけ純然たる「実家のような安心感」度でいえば実家より祖父母宅に軍配が上がるともいえる。

で、卒寿だ。

七年前に祖父を見送ってから、祖母はよく出かけるようになった。老人たちの体操クラブに通い、市に依頼されて老人会が行なう町の草むしりにも参加して大量のお菓子をもらい、朝早くから近所の学校でゲートボールをやっては毎回三位以内に入賞して景品の箱ティッシュをせしめている。

おおぜいの親戚が近くに住んでいる事もあって、毎日のように祖母の六人の弟妹やその親族が様子を見に来てくれるし、認知症の友人もお茶を飲みに来るし、かねてより仲が悪かった隣人とつかみ合いの喧嘩をしている。ババア同士でつかみ合いの喧嘩をするんじゃないよと孫は笑ってしまうが、嬉しい楽しいだけじゃない感情が祖母の生活を活性化させていることは間違いない。訪ねてくる人らに対しても、「こいつ毎回ご飯時に来るな」とか「いつも嫁の悪口ばっか言ってるな」とか対応に困る事が多々あるらしいので、そこをうまくいなす事が脳の活性化に一役買っているのだろう、などと私はしたり顔で言っている。

祖母の家に着くと、祖母と彼女の妹がかんかんがくがく喪服について意見を戦わせていた。ちなみに彼女らは和服の喪服のことを「喪服」と言い、洋服全般のことを「ふく」と呼ぶ。「末の妹が葬式の為にふくを買ったが、それが75歳にもなってびらびらふりふりの飾りがついていて、そういうものを買ったからか知らないが私(わ)の喪服を欲しがっている」といった具合だ。

その流れで祖母所蔵の着物をいくつか見せてもらい、私はペールブルーとミントグリーンの合間の色合いにある、たくさんの花が描かれた着物を譲り受けた。私にパステルカラーが似合うとは思えなかったが、それはそれとしてとても嬉しかった。「色が白いからな」「んだ、色が白いすけ何でも似合う」。ある一定以上の男女にとって、肌の色の白さは顔の造作以上に絶対的な正義なのだ。

祖母の妹が帰宅してから、三人でささやかなお祝いをした。買っていったケーキをたべ、私がたくさん試作したなかで祖母が気に入りそうなブローチを2つ、進呈した。祖母は自分も作る人なので目ざとくブローチの台座を指し、「こういうの買うのに金かかるべ」と指摘した。Exactly(その通りでございます)。

前に述べた通りよく出掛ける人なので、「体操クラブにでも付けて行って」と言ったら、「実は近所の人から旅行に誘われている。温泉つきの宿で、二泊三日、劇を見たり部屋ではないところでものを食べたり(おそらくビュッフェのこと)、また湯に入ったりする。一度は断ったがどうしようか」となっていた。90歳になっても女性は新しいアクセサリーで遠出したい気持ちになるのだ。希望のある話である。

その後で祖母の卒寿スピーチがあった。「とうとう90歳になるが、自分はまだまだ死ぬ気がしない。朝起きると、あれをやろうこれをやろうと楽しみである。100まで生きるかもしれない。いつもやりたいことがあるからだ。これが何もかもどうでもよくなってくると、尿を洩らしながら外を歩き回ることになるだろう。私はまだまだどうでもよくなっていない」。母は自分の宇治抹茶ケーキに夢中でろくに聞いていなかったが、私の胸に響く、堂々たるスピーチであった。

これほど堂々たるスピーチを聴衆一名のみにしておくには惜しいので、ここに記しておくことにした。

「見える人」である祖母の末の妹によると、祖母は120歳まで生きるらしい。あと30年経っても大好きな人がいるなんて希望のある話じゃないか。足りない分は私の寿命をあげるので、あと30年後にもケーキを食べながら堂々たるスピーチで「まだ死ぬ気がしない」と聞かせてほしい。