2017年に精神疾患になり、2018年はふとんから出られない、何もできない生活を送っていた。もちろん、絵も描けない。
その時の「絵が描けない」は、身体を生かしておくことにリソースをかけすぎて、ペンを持って何かを考えて描くことができなかった感じ。
当時泣きながら、やっとの思いで、葉っぱを一枚描いて、今でも大切に取っておいてる。
これは「どれだけ辛くてもあの時を思えば耐えられる」という自分との約束だ。
2019年のある時から、bodypositiveを知り、「自分も見た目に拘らない絵を描いて他人を『エンパワメント』したい」と考えた。
それまでは「どこまで美麗に、自分が思うような美しさで人間が描けるか」考えていたが、この絵を描くときは人間の多様な特徴をとらえつつも、誰かが特別美しくならない、醜くならないシンプルな絵を模索していた。
シンプルな絵から、海外のアーティスト達から影響を受けて、シンプルかつ人間の顔を幅広く表現する試みに変わったが、成果は出なかった。
元々自分の絵はクロッキーやドローイングのような強い流れる線やポーズを即興で描くことが強みの一つだったが、それが失われていくように感じる。身体の特徴を見せることに集中すると、わかりにくい要素を削らなければいけない。(と考えた)
また、私の描く絵は海外ではよくある表現でも、日本では受け入れられない要素が多かった。ボディポジティブの絵だとしても、絵として可愛くない、美しくない、何より「暗くて攻撃的」だった。
当初の私は「他人を励ましたい」というポジティブな決意から絵を描いていたが、明るくて優しい表現だけでは救われないものがあると感じ、あえてボディシェイミングされる苦しみ、怒りを捉えて制作していた。
周囲に評価された「ぽちゃみ」という漫画でも、ボディポジティブを語る上での優しさや明るさを否定するようにみせて、傷付いた者が自分も他人も追い詰める姿を描いている。
まあちょっと、これで「みんな」を救うのは無理だな…と振り返ってちょっと思う。不要だとは思わないけど。
明るくて優しいポジティブな表現が評価されて、商品化され、世の中に波及していく。それは私が願ったことなのに、「この作り手は本当にボディシェイミングやボディポジティブについて理解してるの?どれだけのことをやってきたの?流行りにのっかってるだけじゃないの?」と訝しんで、痛々しい人間になっていた。
で、2024年。今私は、自分が描きたい絵がわからず、描ける気にもなれず、白紙のノートの前で2時間座ってた、みたいな毎日を送っている。ガス欠。
もう絵は描けない、と思いきや精神疾患のバースト効果でいきなり何か描いたりするが、また死ぬ。自分の絵も好きじゃないし、小手先で魅力的な絵の人を真似したって、自分に身につかない。
ボディポジティブを志して描き続けた時に学んだ人間を描く手段やルールと、従来の美麗な人間を描く参考にしたいアートでは折り合いがつかない。不恰好なツギハギになってしまう。
「ポリコレ」とやらに苦しめられているのか、自分は。と悔しくなった。
ところが昨日急に思い至った
「表現」は現実に生きる人々に届き、救いや励ましの光にもなれば、差別や偏見を助長して追い詰める闇にもなること。
急にどうした?真理に辿り着いたか?
世の中へ表現で訴えてきた自分は、絵を発表するという行為が何を指すか知っている。
だから表現という剣がどこにむけて振り下ろされるか慎重になるのは、当たり前のことじゃないかな?
ゆっくり休んで英気を養いたい自分と、ふつふつと鍋蓋をカチ鳴らして湧き出る衝動とのせいで
「もうやめたい」「もう描けない」といった次の日には何か描いてる状態だが、私を見てくれる人は、心配せず「がんばってるな」と思ってほしい次第