意味のないものこそ価値がある、というようなことを、好きな小説の好きなキャラクターがよくいっている。誰かといえば犀川先生なのだが、ともあれ、そういうことを最近よく考える。
子供は、意味のないことをよくする。意味もなく手遊びをし、意味のないことで笑う。芸人のギャグなんかも、意味はないけど印象に残るものは、大抵、子供が好きだ。
でも、大人はどうだろう?
意味のないことは、避けるようになっていくような気がする。
なぜだろうか。
たぶん、意味というものを道具主義的に使って、意味の分かるものだけを選ぶようになるのだと思う。
よりいえば、自分が理解できるもの、使える意味だけを、選び取るようになるんじゃないか。
年を取って、自分の心地よいものに囲まれるようになるというのは、よくあることだ。分からないものは、遠いもの。たぶん、自分の価値観や理解の範疇に内側のものが正しい、という感性に固まっていくのが、老化現象だと思う。それ自体は、おおむね自然なことであるともいえる。
でも、それは、想像力や知性からは遠ざかってしまっていないか、とも思う。
野生動物が、安全なところで暮らし、安全なものを食べているのも、近いんじゃないか、とも思う。
意味があるか分からないことを思索して、意味のないものに対して好奇心を持っている人は、すごいと思う。なぜなら、安定していないところで、よいよいものにたどり着こうとしているからだ。まあ、このあたりは、趣味によるだろう。でも、もちろん、なんでもかんでも突き進んでいくのは難しい。だから、自分の好きなことに対してフロンティア精神を持っているひとに憧れがある。
意味というのは、網目みたいなものだ。
自分のなかの網目が、理解や慣れに従って、出来上がっていってしまう。
それで、水中の魚を掬うみたいに、言葉、文脈、意図……そういうものを解していく。
でも、網を使わないで、水の中を覗いているほうが、ずっと高級なことだと思う。
意味のないことを子供が笑うのは、たぶん、コンテクスト的な網目より印象のほうの心地よさを先んじて感じるからじゃないかな、と思っている。知りませんけど……。