ゆらゆらと、扇にできない海の月。

浅葱
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 現代日本において義務教育を受ける限り、必ず国語の授業で『枕草子』に触れることがあると思う。私が説明するまでもなく、春は明け方、夏は宵、秋は夕暮れ、冬は早朝、という、作者が好ましい……現代のインターネットワード風に言うなら「エモい」と思った景色について綴った文章が一番有名なあの随筆集において、中学国語の教科書に掲載されていた部分は、その「春はあけぼの」を含めて3つ4つ程だったように記憶している。その中で、何となく私の印象に残っている文章が一つある。あけぼのがエモい話ではなく、扇の骨材の話である。(もしかしたら、こちらは高校の国語での取り扱いだったかもしれないが、昔のこと過ぎて断言できない)

「中納言参り給ひて」において、中納言が手に入れた珍しい骨材について「見た人が『こんなにも素晴らしい骨は見たことがない』と言うくらいに、これほどのものはない品です」とコメントしたのに対し、清少納言が「あら、そんなに珍しいのなら、それは海月の骨ですね」という冗談を返すくだりがある。原文では「さては、扇のにはあらで、海月のななり」

 くらげのななり。なんなり、なるなりが音便で省略表記になった「ななり」だ。頭の回転の早かった少納言殿のしなやかな「海月の骨(存在しないもの)」への例えも見事なものだが、まず、私は「くらげのななり」という音自体が好きだったりする。どことなくユーモラスで、ころりと丸くて、不思議な響き。思わず声に出してみたくなる。発言内容が機知に富んでいることに加えて、こうまで発音してみたくなる言葉なのだから、「これは自分が言ったということにしても良いですか?」という感想が中納言から出てくるのも自然なように思える。

 海月という生き物と、ころんと丸いイメージはそこまで直接結びつかないものだ。確かにあの生き物はまるっこい形をしている(ものもいる)が「ふよふよ」とか「びらびら」とか、もっと不定形で薄っぺらく、不確かな印象の形容のほうが似つかわしいと思う。「もし生まれ変わるのならば海月がいい」などという戯言を口にするレベルには、私は海月という生き物の事を好ましく思っている。しかし、その好ましさは「よくわからない上に、不気味さのある様が自由に見えるから」などという、褒めているのだか貶しているのだか判然としない感想から来ているのである。

 海月には扇にできる骨はない。掬い上げた状態できれいに形を保てる生き物ではない。

 けれども、「くらげのななり」には形がある。「得難いもの」「夢幻のような素敵なもの」という、ころんと丸くて手の中におさまるものの姿で存在しているように思える。「海月の骨」というものが存在するのならば、そういうものなのかもしれない。

 ちなみに、見た目がきれいだから海月を見るのが好き……という訳でもない。海月に対する時の私は「冬の夜の、墨を流したような暗い海面にただただ浮かんでいるだけの白い物体(こいつが海月である)を船の上から数十分眺めていて飽きない」みたいなノリだったりする。一般的には面白くはないと思う。けれども、何を考えているのかもよく分からない生き物が暗がりにただただ多数浮遊していることに、夜空の星や炭酸水の気泡を見たときのような安心感を覚えるのかもしれない。そう、どことなく掴みどころのない変な生き物であるところが好きだ。(美しいところも良いが)

 海月自体は、自分の生をマイペースに生きているだけなので、勝手な話である。

@asg
徒然なるままに、の、スタンスで。