怠慢と弁解

 

度々「美味しそうなもの食べてますよね」と言われる私であるが、実際のところ私は美食家というわけではない。どちらかといえば、効率のために美味しさとその探求ををかなぐり捨てるタイプの人間である。

まず現金しか使えない店にはなるたけ入りたくない(クレジット対応にしろ!と憤っているわけではなく、大体財布の中身が素寒貧だからだ。クレジットなら財布の中身が素寒貧でも勝手に来月の給与から差し引かれる。来月の私、頑張れ)だから大概は現金支払いを回避するために個人店を避け、大型商業施設のレストランにしけこむ。

 

商業施設のレストランは大概大当たりもしないかもしれないが、大外れも引きにくい。平均よりやや上程度の食事を安定して提供してくれるのだ。

あと朝が弱い私はどうしても行動開始が遅い。通し営業率もそれなりに高いため、昼食を食べ損ねた時であっても食事にありつきやすい。また目が飛び出るような高級店はあれども、そればかりが並ぶということもそこまでない。

更に同行人がいるときならばある程度、気分と好みに対応しやすいという利点も大きい。

手間と労力と金をかけて食べる120点の食事よりも、横着をして食べる平均を多少上回る食事を常に摂り続けたい。

だからクレジットが使えなさそうな店は5000円のランチを食べるのと同等に腰が重いし、料理も同様である。いくら下手とは言え、継続すれば長い目で見れば多少は上達してコンビニ弁当より確実にまともなものを食べれるだろうが、そんな労力と時間を掛けるくらいならコンビニ弁当か松屋を買って帰るか大戸屋で食べる。

大戸屋は美味しい。私のQOLは大戸屋に支えられてると言ってもいいだろう。大戸屋は偉大なるインフラだ。

このように食に対してコストと探究を渋りまくる私が美食家を名乗るのは些か、いやかなり恐れ多いというものである。

 

また「色んなとこで色んなもん食いやがって!」とも言われることがあるが、これは半分合っていて半分間違っている。事実「今日は何処其処、今度は何処其処」と食べ歩いてることは認めるが、これはあくなき探求心の下行っているわけではないから、この店よりも美味しい食事を求めてと言う具合に無限の探究をしない。

私は怠惰が人の形をなしたような人間である。そして私の住む首都圏には数え切れないほどの店がある。(色んな意味で)ピンからキリまで一生かかっても食べ切れないほどの店がある。その中から選択すること自体もまたコストでしかない。無限と言ってもいいほどの全数の中から「今日はどこで何を食べようか」などと迷うのが煩わしいのだ。

この気分の時はここに行けば間違いないだろうという店が多くとも三つもあればいい。価格、味、決済方法などを総合的に加味した上で「間違いない」店を決めたいのだ。私はそれを決めるために食べ歩いているだけでしかない。

実際、一度「ここだ!」という店が数か所決まったら(たまに気になるところに赴くことはあれど)そのメニューを求めて食べ歩くことはぱったりとなくなる。任意の店に行けば間違いなくクオリティの保証された食事を食べることができるからだ。探索の必要はもうない。

ただし、私はこの「選りすぐり」を決めるまでが異常に長い。故に「色んなとこで色んなもん食ってやがる」ように映るというわけである。(まあ実際色んなところで色んな物食ってるのは否めないが)

 

要するに私はこと店選びという点で横着をしたいだけなのだ。

ただ、味覚なんてものは所詮人それぞれだし、食べログの百名店だ評価が4.0を超えているだの言われようが、自分で食べなければそれがいいか悪いかの判別はつかない。百名店だろうが合わない店は合わないし、評価が3.5以下だろうが美味しい店はある。

だから最終的には自分の足で稼ぐ他ない。その過程でたまたま美味しい店に当たった、ただそれだけのことなのだ。