先日授業内で集英社の栄光の軌跡を学んだ。具体的には、『週刊少年ジャンプ』はいかにして成功したのかである。 端的に言えば行き詰ったときには初めに戻って理念やシステムを見つめなおし更なる地盤固めを行うとともに、革新的なことも行うことで成功したらしい。
その理念と言うのが、「努力、友情、勝利」である。真っすぐかっこいい。 軸が一つあるだけでそのもののかっこよさは一段と上がる。
それに比べ自分と言ったら(比べるようなものじゃないよ~~)、これを信じてただ生きるのみ と言った理念(そもそも理念と言うもの自体個人単位ではあまり使われない)は存在しない。
しかし、これはとても嫌いと言った 逆理念 なら存在する。
「責任、失敗、苦労」だ。
嫌よね。 特に責任。うざったいしいつまでたっても好きになれない。どんだけ良いように捉えても目の前にしたり潜在的に生まれた時に引いちゃう。 これを臆病の二文字で片づけるのは簡単だけどそれはあまりにも客観すぎる。自分の主観が唯一分かる、自分自身がダラダラ主観を書かないでどうする。
責任は、食事における生野菜のようなもの。 美味しくないのにもかかわらず健康の為だけに食している。 たまにおいしいサラダに出会ったとしてもそれは生野菜をもってしてもドレッシングが美味いだけである。 責任も一緒で、たまに上手く処理できた責任があったとしても大体は支えてくれた誰かのおかげでどうにかなっただけである。
高校生の頃は生徒会に入っていて、結構活発に活動をしていてその中で行事を任されることもあり卒業するころには「自分の良いところは責任感があるところ」とまで思っていたのに。発揮するところが無くなって自信が無くなったのか、単にかりそめの責任感だっただけなのかは未だにイマイチわからない。
最近気づいたが、責任は自分だけではそもそも生まれない。
自由に責任が付随するのはよく聞くことだし実際そう。ルールや正しさの外の、大抵の行動は責任が付きまとう。
しかし、考えること/思うことはそうではない。 自分がどう考えようがどう思おうが自由そのものだし責任もくそもここでは生まれない。
それをアウトプット(例:書く、話す、伝える、それに伴った行動をする...)したときに初めて責任が生まれる。
だから、行動に伴わない思考が大好きなのだろう。バイト中だってできるだけ声だけ出してボーっとしたい。
そしてだからこそだろうが自分は行動の自由を上手に謳歌出来ない。自由って、どんな概念も叶わないくらい素晴らしいものだ思う。幸福への第一歩だとも思う。それなのに、自由が持つ責任的側面ばかり見てしまい怖気づいてしまったりその時その時の最悪を想定してしまう。これが良いわけない。
自由が持つ責任なんて、日本の銀行の金利よりも少ないんだから勝手にすればいいと、自分自身に強く思う。 それに伴って、形ない存在が責任を取ってくれる(と勘違いしている)正しさやカテゴライズなどから脱依存して行動すべきだと思う。そりゃ、守らなきゃいけないルールは存在するからそれまでも破って世紀の大犯罪者になれと言うことではない。
どうせ自分の性格上、年を取るにつれてプライドを下げることや挑戦することがどんどん苦手になっていき悪循環をただ巡ることになるんだから若いうちは犯罪以外の全てのことをやるくらいの勢いで行きましょう!!! 自己責任だからこその自由が目の前にあることはもう言うまでもない。
自分が一番自分の総合的な幸せを祈っているのだから。 例えば軽率に、人を遊びに誘うなどしていきましょう。