横浜で人がどっと降りて、運よく座ることができた。このあとも40分は移動するので、なるべくなら体力を温存したい。
と思った瞬間、松葉杖の人が乗り込んできた。 私は朝の通勤なのだから、体力がフルに近いといえば近い。重い荷物を持っているけれど、翻ってみればそれだけの荷物を持ち歩いても問題ない状態だと思ったから、そうなのだ。
松葉杖は向こうを向いて吊革につかまっている。
イヤホンをつけている彼の背中をかるく叩いて、「座った方が楽ですか?」と訊ねた。 「あ、大丈夫です、次で降りるんで」 私は頷いて、もとの席に座り直した。
もっと昔の若い頃なら、「せっかく譲ろうとしたのに、座ってもらえなかった」「それとも迷惑だったのか」「偽善者っぽく見えたかも」と、ぐちぐち考えていただろう。座り直すこともできず、所在なげに別の吊革に掴まっていたかもしれない。 そもそも、譲るのにしろ「どうぞ」と、座ってもらうことを前提とし、期待する問いかけだったろう。
人に席を譲れるようになったのは、妊婦になった時、たくさん譲られる経験をしてからだ。
席を譲られるのは、うれしい。
しかし、妊婦は意外と、立ったり座ったりがしんどい。 足は浮腫むし、動悸はするし、前期はつわりですべての匂いが敵になり、後期はしゃがむのにも腹がつっかえる。 そして、言い難いことだが、産前産後はわりと痔にもなる。座るのすらしんどい。 すべてがしんどいので、座りたいか座りたくないか――といわれれば、「聞いてほしい」としかいいようがない。
だから、席を譲ってくれようとする人の存在はありがたいのだ。
人は多かれ少なかれ、人に親切にしたいという優しさや誇りを持っているのに、 私が譲られる側になるまで知らなかったのと同じように、 彼らも断られてはバツが悪そうにする顔をよく見た。 (だから、ほんの少しの駅でも好意を無下にしないよう座ることもあった)
そして、譲られ慣れた自分だからこそ、「座りますか」と尋ねる側になった今は 断られても「まあ、立ってる方が楽なこともあるわな」と思うことができ、 断られたからといって傷つきもしなくなった。
たぶん、昔の自分に 「もっと相手のことを考れば、色々な事情があるとわかるはず」 「断られて傷ついているのは、座って欲しいと思っているから」 「自分本位に考えすぎ」 なんて言っても通じない。
でも、できれば、傷つかないでいいってことを伝えたい。 断っても、嬉しかった気持ちは本当だよってことを。