この前、ル・シネマ渋谷宮下でエドワード・ヤン『恐怖分子』を観た帰り、渋谷駅に戻る途中の交差点でショートスリーパー堀とすれ違った。スマホを片手にたぶん配信か何かをしていたけれどそれ以外のことはふつうの人たちと同じで、というか渋谷だからもはやどんな格好がふつうかはわからないとしても、とにかく雑踏とまばゆい光のなかから妙に浮かび上がってきたショートスリーパー堀の姿は、たぶん1秒にも満たないショットとして鮮やかに私の眼に飛び込んできて、これが映画かと思った。ショートスリーパー堀のことはよく知らないしとくに好きでもない。
昨日は寝すぎ、今日は寝れなかった。いつまでも睡眠がうまくならない。今日は10時20分からの『急に具合が悪くなる』+濱口竜介、三浦哲哉、三宅唱トークイベントの回に行ったのだけど、ふだんならまだ寝ている時間に映画の上映がはじまるということはそのさらに前に起きてないといけないということで、ということはさらにいつもより早い時間に寝れるのがベストだということになるけれど、2時にベッドに入ってから結局5時半まで眠れなかった。3時間睡眠で3時間の映画と1時間のトークイベントを観に行くことになったのだが、蓋を開けてみれば一睡もせずに観終えてしまった。上映中もトークイベント中もなんだったらふだんより元気、それもアドレナリンで無理矢理脳と眼だけ開けているみたいなドランクな感じでもなくわりとすっきり、という不思議な体験をした。濱口竜介という男はひとつとして退屈な作品を撮らない映画監督なんだなとつくづく思い知る。観たのは二回目だったが、断然二回目のほうが良い映画体験だった。そもそもこの映画の主役のひとり、マリー゠ルーにしてもそうだ。自身がプロデューサーを務める高齢者養護施設では経営陣と現場の双方から現状の困難を指摘され、夜勤の欠員を自らで埋め、帰ってきて睡眠薬を服用したタイミングで入所者の危篤の報せが飛び込み、本来なら休日だったはずの翌日にも亡くなってしまった入所者のもとへ駆け付けるマリー゠ルーは、この映画のなかでずっと眠れない人ないし寝ない人として描かれている(仕事上のパートナーみたいな男にも真理にも「寝ろ!」と言われ続けていた)。そういえば、トークイベントでは三宅唱が、本作で「涙」がわりと序盤に(しかもシナリオにはっきり明記された「書かれた涙」として)登場することの背景を、『ドライブ・マイ・カー』の家福(西島秀俊)の涙の遅さ(「泣けない男が泣けるようになるまで」の物語)を引き合いに出して訊ねていたが、『ドライブ・マイ・カー』のことを思い返せば、広島から北海道へ至るその決定的なロングドライブの場面でふと暗がりから出現した家福があられもなく晒していた寝顔にも私はわずかにたじろいだ気がする。『急に具合が悪くなる』はマリー゠ルーが眠れるようになるまでの映画だといってもいいように思えた。そんなことをしていたらすぐにも具合が悪くなるのではという私の心配をよそに、映画は夜を徹して互いを照らし続ける真理とマリー゠ルーを映し続けていく。郊外・グローバルサウス・自然とともに資本主義が収奪する外部のひとつに「身体」を挙げる真理は、末期癌に侵されたその身体を夜に向かって震わせながらいま/ここのディベートをマリー゠ルーと続けようとする。映画館で映画を観て寝る体験について語っていたのは濱口自身だったが、対照的に真理とマリー゠ルーは覚醒しようとし続ける。それは、濱口竜介の作品がつねに、対面して見つめ合っているふたりがそこで何を引き起こすことができるのかという問いに導かれていることと無関係ではない。濱口竜介という男はひとつとして退屈な作品を撮らない。それは、映画それ自体が3時間なら3時間分の集中に耐えてしまう過覚醒した眼だからかもしれない。映画は起きている人間の身体にしか働きかけられない、休息を取りバーンアウトを防ぐには眠るしかない、人はいつか永久に瞳を閉じなければならない。一回目では、二人の会話で語られていた資本主義批判と物語が見届ける彼女たちの達成に断層があることに引っかかっていたのだが、むしろマリー゠ルーが真理から手渡された「力を抜いたほうがいいよ」という助言を受けて「改革を急いていた」と限界を認めるように、映画が達成できることの限界を見据えてはじめて、盛り込まれた社会批判の意味と、いま/ここで起こすことのできる奇跡の奇跡さが実感できた。マリー゠ルーのこわばりをほぐした真理のマッサージを、「夜になったら歩きたいからふくらはぎを揉んでほしい」と頼まれて病床の真理に向けかえすとき、ふと真理が眠りに落ちてしまったことに気づくマリー゠ルーに胸を打たれた。ユマニチュードに限界があるのと同じように、マッサージにも限界がある。それでも時に人は、その触れ合いから単なる休息や癒し以上の何かを受け取ることがあるし、受け取ることができる。真理とマリー゠ルーの変わっていく表情、感情、身体にこわばりをほぐされて、「もっとあなたのことを知りたい」という二人の言葉を自然に信じたくなっていった。私もまだまだ、と思って目を開きつづけた。一回目観たときも今日観たときも、終盤の白昼の庭での演劇シーンではこらえきれない感情に突き上げられた。映画は人を眠らせないが、映画は白昼夢を見せることができる。
車椅子の真理は立ち上がり、マリー゠ルーは足を投げ出して横たわる。死のなかにも生が、生のなかにも小さな死があり、それぞれをささやかに持ち寄ることで何かが起こる。ショートスリーパー堀も、ついでに睡眠不足らしい高市首相(私はあの「I am who I am」という言葉が大嫌いだ)も、この3時間の映画を観に映画館に来たらいいのにと思う。別に丸ごと寝ててもいいんだし、コーヒーでも片手にじっくり鑑賞したっていい。射し込んできた明かりにあらためて身体を起こすとき、世界は何一つ変わっていないかもしれないが、自分のなかで不可能だと思っていた何かがいつの間にか可能になっていて、見えなくなっていた何かをすぐそばに感じられるようになっていることに気づくだろう。もしかしたらその何かとは、自分のなかにいる、自分とそっくりな名前をした誰かかもしれない。「あなたは誰?」とあなたは訊く。「難しいね」と私は答える。