2024/04/10

atoraku
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6時半ごろ起きる。起きたときには家はひっそりしていたが、しばらくベッドでぐだぐだしていると母の大きなため息が聞こえた。その瞬間、妹がまた寝落ちしていたのだなと思う。なにも朝からそう怒ることはなかろうに、と思うのだけど、毎日「今日はちゃんとはやくお風呂にも入って、ちゃんと寝なさい」と言いつづけていればそれだけ怒りたくもなるのかもしれない。寝落ちに関しては、わたしも高校時代毎日していたのでわたし自身はなにも思わない。ただ妹の忙しさと身体にかかるストレスを心配することくらいしかできない。寝落ちしている妹を夜見かけたときは、布団をかけたり電気を消したりする。

ぱたぱたと洗面台の方に歩いていく音がする。自分もそろそろ起きる。

ついていたテレビで「クラスがえやり直し」のニュースが流れている。妹は、えー、と学校側の決定に不満そう。「これが認められちゃったらさ、どんどん、あれもやだから、これもやだからみたいにならない?」と妹。わたしは、「そうかもしれないけど、生徒間の事情を優先すべきだと思うよ」とそのとき答えたのだが、大学生であるわたしよりも現役高校生の妹のほうが、すなわちクラスがえの緊張や不満や期待を肌で感じているだろう妹のほうがクラスがえをやり直すことへの心理的影響が大きく感じられるのかな、とも思う。それにしても古賀及子さんも書いていたが、クラスがえというのはかなり天運任せすぎるところがある。受けとめ方も生徒やそのときどきによってバラバラで、クラスが変わったのが原因で学校に行きづらくなることもあれば、大嫌いな先生にあたっても難なく適応していく生徒もいる。こういうとき、いまは……と思わずいつも考えてしまうのだけど、いまのわたしに毎年のクラス替えを受けとめる体力はない。小中高規模のクラスというまとまりさえ、わたしにはうまく乗りこなせる自信がない。と、高校生のころのわたしに言うと、べつにいまも乗りこなせてはない、と答える。わたしは前日入っていなかったお風呂に入り、LINEで部活の朝練を欠席する旨を伝えるとふたたび布団に横たわり、2時間目に間に合うくらいの時間にようやく家を出ていった。

一方、今日のわたしは二度寝をすることもなくトラつばを見終え、午前中は大岩雄典さんのマイケル・フリードについての発表を見ていた。2時間半くらい通して見ていたが「演劇性」や「リテラルネス」、あるいはスタンリー・カヴェル由来の「懐疑論」など、思考が整理されるようなトピック/概念を知ることができて面白かった。フリードの美術観はかなり奇妙なところがあって、とくにクールベの自己言及的な絵画にメタ的な自意識(物語論的な、異なるレイヤーの階層関係)を見るのではなく、むしろ、作者が画中人物へ転身するといういわば転説法(メタレプシス)を見る点が面白い。まだ整理できていないが、フリードについてはいずれ学びたいと(当の大岩さんのツイートなども読みながら)思っていたので、このように発表がYouTubeにあるのはありがたい。

洗濯物を取り込んでいた母が、ベランダを見てあっ、と声を上げたのでわたしも見ると、アゲハチョウが来ていた。弱っていそうで、羽をぱたぱたさせてもすこしずつ歩くようにしか進まなかった。ティッシュを手に取り、慎重に、チョウの脚が上ってくるようにかざすと、チョウがそれに掴まってくれたので、そっとベランダの縁へと持っていくと、すぐにパタパタと高く飛びはじめた。ま近くから見ても遠くから見ても、アゲハチョウは見事だ。母が「よくここまで来たなあ」と言った。ほんとだね~と言いながらチョウは見る間にどんどん離れていき、空気のかがやきになって、やがて見えなくなった。

バイトの前にタリーズで読書するべく外に出る。春の日が気持ちいい。前日の雨に桜は散り模様で、ひらひらと花びらが降っているなかを『ぽんぴ』をかけて通る。散歩に連れ出された犬が道の真ん中で、背筋を伸ばして優雅におすわりをしている。その座り方があまりにかわいくてつい見てしまう。市街では交通安全キャンペーンみたいなのがやっていて、警察の隊列とマーチングバンドが車道を練り歩いていた。今日は暑いだろうな、とマーチングを見ながら思う。わたしもつい何年前まではこれをやってたのだ、とあまり信じられない気持ちになった。

歩くのがとても楽しかったのだが、それは春の日のためだけではなくて、履いていた靴が新品だったからかもしれない。この前髪を切ったときに父親に買ってもらった靴(セールの最終日だった!)だ。買ってもらった翌日は、先輩からもらった日替わりカレンダーで「履き慣れた靴を選ぶ日」と書いてあったので、前から履いていた靴を履くのが嬉しかったのだが、今日は陽気にも誘い出されて新しい靴をおろすのが嬉しかった。