11日、毎週やっている『文体の舵を取れ』合評会の課題のため、小説と「人物」ということについて一日中考え続けた日。最終的に書いて提出したものにそれが影響を及ぼしたかどうかはわからない。今週の課題は一つ目が会話文だけで執筆するというもので、二人の人物の会話を通してそれぞれの人の感じ(「人」と書いて「にん」と読むそれのようなもの)や置かれている環境や出来事の進行などを示すことが目的となっていた。二つ目の課題は自分とはまったく違う感じ方をする人間を焦点化子として書くというもの。
人物が人物として立つ、ということはどういうことなのか。書かれた文字列が人のなにかしらを伝えるというのはどういうことなのか。
たとえば、わたしはトマトが嫌いで、計画通りにものを進めるのが苦手で、朝が苦手で、若干本を読むのが好きで、音楽でいえば最近はNMIXXというK-POPアイドルにハマっていて……という特徴を並べることはできるし、確かにその組み合わせがまったく同じ人間などこの世にいないのではないか、と思えるような気がするけど、小説を読んで「ああ、この人はこういう人間なんだ」と感銘を受けたり隔たりに圧倒されたり実在の誰かを思い出したりする瞬間はそういう「キャラクター」を構成する履歴書的な情報の集まりによってできるのではない気がする。書きながら思ったが、たぶんわたしを構成する組み合わせにほとんど近似した人物はこの世に当然いるだろうし、そう思っておいたほうがいい。(と思う。)
自分自身の固有性なんて自分にはわからないが、だからこそ、必然的に自分とは別の誰かのことを書く「小説」という表現媒体に意味があるのかもしれない。小説はすべて「伝聞」なのではないか、と柴崎友香が言っていたり、滝口悠生が「小説はそこにいない人、そこにない出来事、いまではない時間についてしか書くことができない」と言っているのもそういうことなのだと思う。誰かが誰かのことを想うとき、想っている人間が直面するのは想われている人間の「感じ方」であるとともに自分自身の「感じ方」の限界でもある。人物が表現される、というときに必要なその迂回や遅延こそが小説、なのか?
ということは11日にはまったく考えていなくて、いま書きながら考えたことによって伸ばされ、歪曲を受けている。11日に本屋さんに行って立ち読みしたもののなかに、長嶋有の解説があり、長嶋はそこで「小説とは小説(ルビ:かんじかた)である、自分はそう言い切ってしまいたい」みたいなことを言っていたり、滝口悠生の解説もあり、滝口はそこで「町田康の小説はいつも出来事が先にある」みたいなことを言っていたりして、二冊ともすごく読みたく買いたくなったのだが、授業の教科書と、僅少の専門書により強く衝動を感じ、またの機会となった。またの機会は訪れるだろうか。
その日に、「会話文で人物が伝わる」という現象に対して考えついたひとつの仮説は、「その人が心から伝えたい、と思った言葉や状況を描く」だった。どのような事象に対してであれその人なりの語るべき切実さがあるとき、その声に人は耳をひらく。しかし思いついてから、これも滝口が言っていたと気づく。自分の考え方にはどこまで彼の影響があるのだろう。「自分とは全く異なる感じ方をする人を描く」問題については、自分とは違うな、と思う人をモデルにして書いてみたのだが、書けば書くほど「わかる」書き方をしてしまい、これでは駄目だよな、と思った。小説と「人物」の捉え方には、まだまだ謎がたくさんある。
12日。神奈川県の三崎口から千葉県の成田空港までを一連なりに走る列車は大まかに西から京急線、都営浅草線、京成線という区分になっており、京急線と都営浅草線が切り替わるポイントが泉岳寺駅にある。わたしは京急川崎辺りから都営浅草線の日本橋までを通学で使うので、大学のある日は毎日泉岳寺を通る。品川-泉岳寺間は地下鉄への移行ポイントでもあり、行きは固く骨ばった大きなビル街のなかへ潜り込み、帰り(だから夕方や夜が多い)は都会の光と空が一挙に流れ込んで、眺望の変化が劇的になる、わたしはそれがとても好きだ。とはいえ慣れてしまって、上のようなことはつゆも思わずに満員電車の端のほうで立っていると、ちょうど地下鉄に入ったあたりで電車が急停車し、すぐに車両中の電気が落ちた。
こんなことは初めてだった。当初はすぐに復帰するかと思ったけれど、確認作業は難航しているようで、振り返ってみれば十分以上は止まっていたような気がするし、思い出せば思い出すほど、かなり長く時間が流れていたように思えてくる。外界からの光が一切届かない暗さのなか、密集した人々は各々のスマホに顔を照らされている。熱心にこの状況についてメモをとるわたしもふくめ、みな平然としているように、見える。この時期だからか、11年の震災によって停電したときや、避難生活のことを思い浮かべる。わたしはたとえば体育館で寝泊まりするような避難生活を経験したことがないが、体育館に座る自分の姿はなぜかいつもイメージしてしまう。ニュースや想像のなかで見たことと、自分の小中学校の景色などを重ねているのだろうか。思えば小学生のときから、災害が起こるたびに自分の地域だったらどうだったか考えていたような気がする。小学校のとき、行事や朝礼などで体育館に座ることになる機会はよくあった。そのときは小学校が世界に等しくて、なにか困ったことがあってもそのなかにしかなかった。記憶のなかの体育館には、もはや顔も名前も判然としないが友だちの姿が自分のまわりにあった。その人々が――あるいは当然自分自身が――そこにいないこと、姿を見せないこと、もうこの世にいないことを、幼いわたしはうまく想像できなかったのだと思う。わたしは、多分小学生のときにはまだ、さびしいという感情を知らなかった。