2024/04/14――鳩を思う日

atoraku
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すこし遅く起きる。今日のうちにフローベール『三つの物語』を読み切ってしまいたいと思っていた。昼過ぎからは家族で母方の祖父母家に行く予定があったので、午前中はそれにあてることにする。そののち読了する。

読んでいると、両親がなにやら外出する素振りをみせている。もう行くのかと訊くと、そうではなく、近くのホームセンターに行くのだと言う。近くのホームセンター、と書いたが、あまりにふだんホームセンターに用がないので近くにわりと大きめのやつがあることも忘れていた。そんなふうなので、え、どうしたの、なに買うの?と意外に思いつつ訊く。「鳩が出るのよ、ベランダに最近」と母。そういえばわたしも、去年の5月ごろ両親がコロナでダウンしてわたしが家事一般を担っていたある日、ベランダに来た鳩を見たことがある。わたしは油断していて、鳩が来た、と思うだけで目も留めずにいたら、いつの間にか鳩はそこに糞をして飛び立っていった。慌てて調べると、糞があることは、鳩側にはそこに巣を作れるというテリトリー認識を、人側には糞に含まれる細菌などが風に乗って運ばれてくる被害をもたらすらしく、入念に対処法を調べてそれを除去し、徹底的に消毒したのだった。

それからしばらく鳩のうわさは風にも聞かずいたものの、母によると最近増えているとのこと。今日はついに小枝を持ってきたからさ、と一日通して何回も聞くことになった今日の出来事が、よほど母にとっては大きく、腰を上げるきっかけになったのらしい。

それで両親はホームセンターに行き、わたしが本を読んでいるあいだに帰ってきて、早速作業に取りかかりはじめた。わたしが窓に近いリビングの椅子で本を読んでいたため母は、鳩来ないか見張っててくれたの、と言った。たまたまです、とわたし。

思ったより大掛かりな対策をするようだった。ベランダの三面を覆いつくせるほどの大きな網に、突っ張り棒をふたつ。外にひらけた部分を網で覆ってしまう作戦だ。わたしはてっきりスプレーを買うくらいのことだと思っていたので、おお、徹底的だ、とつぶやく。わたしはしかし本を読み切りたいのであって、気勢よく働く父の姿を見る母にアンタ手伝いなさい、と言われてもしばらく動かないでいる。もう、もうすぐ読み終わるから。やがて解説まで読み切って手伝いはじめたわたしだったが、案の定こういう作業ではあまり使い物にならず、なんか気持ち悪いな、ここ直すか、と試行錯誤している父の後ろで「あ〜、いや、もういい感じじゃない?」とか「DIYとかやんないからな〜」とか、およそ自分が父の立場だったらいらいらしてやまないだろう、口だけはよく動く木偶の坊をしていた。

父の尽力の甲斐あってそれらしい覆いが完成した。父はわたしのぶつぶつ呟く声に怒る素振りもなく「お前はDIYとか興味なさそうだな〜」と言ってくれていた。

鳩といえば、フローベール『三つの物語』は「鳩」という糸でゆるやかに繋がっている短編集だと言うことができる。日記を書くまでその照応には全然気がつかなかった。それは、『三つの物語』において描かれる鳩はキリスト教における聖霊の象徴という側面が強く押し出されたものだからかもしれない。わたしのなかに、また家族のなかにそうしたキリスト教的なイメージは乏しく、平和の象徴と言われればたしかにそうというくらいで、それは生活のなかで目にしたりときどき家にやってくるのを防止したりするという俗っぽい意味しか持っていない。だから特別思い入れることはこの先もないように思うのだが、人家の(それもマンションの上階の)ベランダにまで居住地を探さなければならない鳩の生活について、人間と鳩の関係の変遷について、こんなふうに思ってみる日もある。

そのあと行った祖父母家とその夕食、またその帰りに妹となぜか一駅分歩いた時間などもちょっと書きたいような気がするんだけど、疲れたのでいいや。

赤坂見附の桜。