2024/04/16

atoraku
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前日の夜、急に大学の健康診断を翌日の午前に入れていたことを思いだし、慌ててビタミン類とかジュースとかを摂取していないか頭のなかで確かめる。牛乳を飲んでいるときに気づいたので、「牛乳 尿検査」とか「尿検査 前日 何時まで」とかで検索を重ねる。どうやら大丈夫そうだった。

いつもより早く床に就いて、いつもより相当早く起きてしまった。5時半に起きた、のは久しぶりだった。だから結局睡眠不足で健康診断に向かうことになる。一日二日くらいのコンディションの差では、結果にはどうにも響かないのだろうけど。実際、忘れずに採尿を済ませてほっとひと息ついたわたしの頭にあったのは、その後の健康診断への懸念ではなく、早く起きたからなんか色々出来そうでテンション上がるな、というぼんやりした期待感だった。リビングでついていたニュース番組(と言えるほどニュースをやっていたわけではなかった)を誰も見ていないことを確認して、朝から日曜美術館の録画を見る。横浜トリエンナーレ回。妹はもう学校に行っていた。早い。見終わっても6時台なのは相当アガった。横浜美術館はとても好きなのだけどここ数年は工事していて、先月のリニューアルオープンがとても待ち遠しかったしトリエンナーレにも必ず行かなきゃと思いつつ、いざほんとうに行くとなると、ほかに横浜に出る用事も見つからずに、なかなか腰が上がらないまま過ごしている。

健康診断は10時半からだった。電車で立って本を読んでいると、強い眠気が肚のほうからのぼってくるのを感じ、視界に確実さが薄れていることに気づく。文字を追う思考の糸は短く、伸びたさきから解けるように消えてしまう。これはまずい、と思う。わたしは年に一度くらいのペースで電車内で貧血を起こす。特に最寄り駅まで走ったあとや睡眠不足のときに起こりやすい。後者はたぶん実際に半分寝ているのだと思う。くたびれた身体にどくどくと心臓が血を送り、酸素と血が足らなくなった頭が両目を休息のために閉じさせる、全身の力がふっと抜ける、気がつくと倒れこんでいる、ということが起こる。たとえ感じた前兆が気のせいだったとしても油断しちゃだめだ、と危険を感知したわたしは、急行に乗り換えるべき駅で降りずにそのまま各停に乗って、いつもわたしがそうするように降りていった人の空けた席に座る。のろのろ進む各停に乗っても間に合う時間に家を出られたのだけが幸いだった。ふだんよりよっぽど時間がかかったはずだが、着くまではほんの一瞬に感じた。よく寝ていた。

左目は、メガネの度を直しに行った方がよさそう。血圧がすこし高いのはいつものこと。体重は思ったより少なかった。大学付きの健康診断は無料で項目も少なく、尿検査を除いてほとんどの症状については自己申告による保健アンケートでしか確認されないので、10分で終わった。もしかしたら今朝貧血を起こしていたかもしれないわたしは、ほんとうに健康なのか。ほんとうの「健康」なんて存在するのか。

キャンパスにはスタバがあって、スタバのあるフロアは一面が自習スペースのようになっている。学校の自習室というよりはオフィスにあるような、ガラス張りでオープンな感じのラウンジに近い。スタバもなんというか店舗らしくない店舗で、ドアはなく、そのフロアの壁にレジとドリンクのカウンターがついているだけで椅子も数脚しかなかった。天気がいいのでそのあたりは明るく、室内ということもあって気温もちょうどよさそうだったので、そこで本を読む。人はまばらだった。

100均にある、よくある名字のを集めたハンココーナーみたいな佇まいで、レジから少し離れたところに四角い小さな棚が置いてあって、そこにはスタバの豆とかアイテムとかが入っている。ハンコのは回るがこれは回らないと思う。それの一番下の段(たぶん在庫をストックしているところ)を開けて、誰か業者の方が修理していた。しばらくするとお店の方を呼び、こんな感じですね~と話している。けっこう直しにくかったですか? そうですね、ここがもうこんな感じになっちゃってたんで、ぜんぶ新しいのに替えておきました、とその方はにこやかに話す。実直な仕事をするひとのように見えた。では、失礼します。とその方がお辞儀をし、お店の方もありがとうございました、と言ったあと、あっ、ちょっと待ってください、と業者の方を呼びとめて自分は店のなかへ入っていく。なるほど、とわたしは思う。しばらくすると小さい紙コップにアイスコーヒーを入れて手渡していた。なんとなく、家みたいだなあと思って見ていた。午前の光の感じも相まって、『すべての夜を思いだす』の、団地に来たガスメーター点検の人がそこに住んでいるおばあさんにみかんをもらうシーンを思いだしていたのかもしれない。業者の方が帰ったあと、さっそくそこにアイテムをしまった店員さんは、別の方に、すごいストレスだったのがめっちゃ解消された、と言った。声も弾んでいるように聞こえた。変えなくてもなんとか、って思ってたけど、いざ変えると快適さが全然違う。

その朝わたしは、日曜美術館に変える前に、原宿にできる新しい商業施設のニュースを見ていた。フードコートの取材をしていたのだけど、どこもかしこも「オシャレ」で、ネオンがあって「レトロ」で、隈研吾によるゴリラのオブジェ(???)があって、なんだか嘘っぽいオモチャみたいだなと思っていた。母に、なにが楽しいんだろう、こういうトレンドに乗っかっただけみたいなのばっかりで、すぐ潰れたらどうするんだろう、と言うと、母はたぶんすぐ潰れてもいいってことなんじゃない、と言った。

スタバのその風景を眺めているとき、そのニュースを見たことは頭からきれいさっぱり失われていたのだけど、わたしの目と耳がその風景に惹き寄せられたのはそのニュースの印象のためだ、といまは思えて仕方がない。アルバイト先のある駅前で建てられては潰れていくテナントばかりを目にしているから、つい、店舗という空間と営みを、約束事だけが支えているおままごとみたいなものだと思ってしまう。スタジオやセットの書き割りみたいなものだと。実際、約束事によってなにもない場所が空間と呼ばれるようになるという仕組み自体はお店も家庭もテレビドラマもぜんぶ変わらない。でも、このスタバの店舗にもあらゆる空間と同じように、個々のオブジェクトの配置を生きたものにしている人がいて、その同一性を支える時間があって、「自分の場所だ」と思う人もそのリアリティもある。考えてみれば当たり前の話ではあるけれど。