2024/04/11――紙に書くのはいつも楽しい

atoraku
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前日がバイトだったから寝るのがすこし遅くなったもののなんとかトラつばに間に合う時間に起きる。日記を書いて大学に向かう。行きはずっと音楽を聴いていたような気がする。そうそう、knowerとかgenevieve artadiとかを聴いていたのだった。夜に、早稲田松竹のレイトショーで友人と『サッド・ヴァケイション』を観る予定があったので、ATMでお金をおろしたあとそちらに向かう。チケットを取る。そのあいだもずっと音楽を聴いている。うるさくないのだろうか。その日は結局早稲田-高田馬場を2往復してくたびれた。

よく晴れていて、人がけっこういて、大学がはじまるんだなー、と思う。

図書館で読書とフランス語の勉強をする。そのあとレイトショーのまえにサイゼに行く。すごい人だ。高校生、旅行客と思われる方、わたしのようなひとりのひとなどなどなどが広い店内にすごくいる。定食屋さんみたいにゴチャッと密集していないし、衝立があるので、声もにおいも拡散してなにも聴こえないしなにも感じない。変な空間だと思う。人も来ない。注文もQRでやる。食べること以外しなくていいです、しないでください、それ以外の部分を最適化していますので。みたいな感じ。隣のテーブルの人が、「あそこのサイゼ、まだ紙で注文してた」「遅れてんね」と言っていた。遅れているのだろうか。わたしは、紙で注文するスタイルになったとき、正直ちょっとわくわくしていた。コロナ禍が原因で一挙に進んだ隔離方式のひとつだとは思うし、それが結果的に現在の人件費削減・商品の値上げ防止・利益の最大化、みたいなことに繋がっているのだとは思うが、紙になにか書くのはいつも楽しい。備考欄がある。備考がとくになにもなくても備考を書きたかった。

それでもサイゼに行くのはやっぱり安いのと味が安定しているからで、わたし自身安住してしまっているところもある。

『サッド・ヴァケイション』はめちゃくちゃ疲れた。完全に映画が仕掛けた挑発にいちいち乗っかってしまったというか、まともにくらってしまって日記を書いているいまもまだ疲れている。

帰ると、リビングに積んでいたわたしの本の山の、図書館で借りてきたフローベール『感情教育』のうえに、母が買ってきたのだろう、『株の超入門書』と書かれた本が置いてあり、ものすごく嫌だった。わたしが読もうとしている小説を覆い隠すように株の本を置かれて、ちょっと侮辱されてる気さえした。この前、積立NISAの話をされたとき、わたしは母に、「経済学の勉強なんてしてないんでしょ」と言われたのだが、たしかに体系立てて学んだりはまったくしていない一方で、あなたが思ってるよりは考えていると思うよ、と思った。それでこの本を見たとき、なめるのもいい加減にしてほしい、と思うなどする。わたしの信条と、積立NISAやiDeCoは相容れないので、いまそれらをやることはできない。自分を曲げることになる。それくらいの信念というか考えはある。もちろん、学びつづけて意見は変えつづけると思うから、株のことも一応知っておこう(世の中のしくみとして)とは思うけど、両親にもわたしのふだん読んでいる小説や思想の本や人文学の本などをすこしは読んでみてほしい、とか思う。

朝起きたら怒ろうと思っていたが翌朝わたしは疲れのために遅く起き、母は仕事に行っていてもういなかった。