(追)読み返してみて、ちょっと重い。でもせっかく書いたなら出しとくか、の精神! レポートは書いていたが自分自身についてのこと、身辺雑記が久しぶりだったから、ちょっと整理が必要だったのかもしれない。
~~~~~~
レポートが前日の深夜に終わり、無事(?)春休みを迎える。一月はあっという間だった。残り授業が少ないこと、その少ない授業をたびたび休んでいることなどが相まって、一月は、大学というより長い休みと休みのあいだの期間、という印象が濃い。年始にちょっとだけ読んでいた柴崎友香『続きと始まり』をふたたび手に取れば、何も変わっていないかのように、また「続き」が「始ま」った。自分はいま、いつの時間を生きているのか。あの頃とはどう地続きで、どう隔たっているのか。コロナ禍の緊急事態宣言に直面し、ふたつの震災の記憶などをめぐって登場人物たちがふと抱く自らの時間感覚への問いが、早稲田に向かう電車に乗るわたしのなかでもまた、浮かび上がった。
大量の『ユリシーズ』関連本を中央図書館に返しにいく。いやはや、お世話になりまして……しばらく手に取ることはないかもしれないが、書き終えてみれば刺激的な体験だったことは間違いがない。柴崎友香からジョイスへ、という旅程を経て柴崎友香に改めて戻ってきた今日は、ジョイスの不可解さが多少恋しくもあった。ほぼすべての文章に注がついている、なんてことがない。巻末の注を熟読してから本文に戻って、なおわからない、ということもない。でも書かれた小説はどちらもそれぞれの仕方で「謎」を突き付けていて、不可解さとか理解しやすさ、という言葉も簡単に使うことができないことに気づく。
ところで今更ながら、中央図書館はとてもいい空間で、静かだし無料だし何時間いても気にする必要がない(当たり前だけど)。比較対象がカフェなのがわたしの行動パターンを示している。これからは図書館をもっと有効活用していくぞ。そんな気持ちを胸にフランス語を勉強して帰った。
両親がリビングでサッカーを観ていて、すごくうるさい。とくに日本が不利になったときがうっとうしくて、ああ…とか、何やってんだよとか、よくそんなに憂うことができるものだと思うくらいの入り込み方をする。父親はサッカーをはじめスポーツ観戦が好きなのだが、日本チームとか日本の選手が出ているときしか何の競技も観ない。特段保守的な考えをしているわけでもない(というより政治的な信条を父親から感じたこと自体がない)ので、なぜそこには線が引かれているのだろう、と純粋に疑問に思っている。前にカタールでサッカーのW杯があったが、それをやっていた期間(2022年の11-12月)がわたしの精神や身辺での出来事などがかなり厳しかった時期と重なっていて、リビングと扉一枚隔てた部屋で、床にうずくまりながら彼らの歓声を聞いていたのを思い出した。あの頃はもっと恨めしかった。
その時のことを詳らかに書くことはまだできない。今日のように、珍しく少し書きたいと思うときもあるが、逆に考えているときのほうがまだ多い。
そんな時期があって、その続きとしての、いま。わたしはそれなりに楽しく日々を送ることができている。明日は朝からバイトで、終わったらまた大学の図書館で勉強して、本も読みたい。明後日は映画が観たい。この春休みは、幸いにして楽しみな予定ばかりだ。あの頃のつらさは、わたしにとってすごく大切だった人とのかかわりのなかで生まれたものが大きかったのだけど、その人と疎遠になってしばらくしたいま、ふたりともそれぞれ元気にやれているのなら、もうそれだけでいいような気がしている。もうほとんど観測していないけど、どこかで元気でやっていてほしい。
一月で嬉しかったことのひとつは、何人かの方から誕生日プレゼントをもらったことだった。生きていていいんだ、とその度に思った。その思いまで手渡してもらったような気がした。本のカバーをくれた高校の部活仲間の誕生日が2月12日にあり、いまは、何を贈ろうかと考える時間がとても幸せ。贈り物を考えることは小説を書くことに似ている。何を/どんなふうに贈ろうか、と考える時間が決して無駄にならない。いろいろな場所をめぐり、様々な物を見ては記憶をたどり、最後に「これだ」と選びとるとき、偶然と必然がかみ合ったような手応えがある。わたしはいつもそれを探している。