2024/03/26

atoraku
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容姿を気にかけることへの熱意は人生を通じてずっと低かったと言っていい。

昨日(25日)の日記でわたしはこう書いた。ところで今日(26日)、臼杵陽のパレスチナについての本を読みながら、やはりいまわたしが表現するとはどういうことなのか、わたしの体験を形作っている、わたしには透明で所与なものに思えてしまっている構造とはどんなものなのだろうか、と考えはじめたとき、「当事者批評」という言葉を思い出し、ネットで検索して出てきた文學界の記事(https://books.bunshun.jp/articles/-/6958)を読んだ。

斎藤:(前略)頭木さんが書かれているように、健康な人の身体って透明なんですよね。特に健康な男性は、自分の身体をほとんど意識することがない。女性は月経のほか、便秘、頭痛といった不定愁訴を頻繁に抱えているので身体意識が高いんですが、健康な男性ほど身体は透明化している。両者では、そこから出てくる思想もずいぶん違うだろうということを想像しました。

まさに、と感じる。昨日の自分が言及していたのは容姿だから、月経による不調や身体疾患についてではないけれど、自分の身体を透明に感じていなければ、「熱意」という単語の選択はしなかっただろうと思う。熱意という単語を発するとき、それは"努力"とか"能動性"とかの概念も一緒になって響くが、たとえば女性は、男性よりももっと社会や周りの人からかけられる容姿に関する圧が強いはずで、そこに違和感を覚える人々は"熱意"などという個人の資質に行動の根拠を絞る単語は使わないのではないか、などと考える。あるいはそれに反撥したり逆に規範を自分の個性や表現と衝突させたりする人々の用いる"熱意"と自分のそれは質の違うものである気がするし、低くありつづけたと言えてしまうことが特権を指し示しているような気もする。引用文の言葉で言えば"身体意識"の低さ。しかし昨日の日記は裏を返せば、それがずっと低かったことに気づきかけている。髪の毛の不快感や服装に対する自分の意識は、これまで話したことはあっても書いてみたことはあまりなかった。また、幼いころから弱い皮膚の、ここ数年ずっと続いている痒みや赤み、あるいはその治療の難しさや長さは、毎日わたしの頭を占領しようとするし、歯列矯正の経験もいまなお続いている。自分にとっては日常になってしまったこれらも、わたしの経験であることは間違いない、のだから言葉にしてもよい、のだろうか。身体疾患と呼ぶことのできないささやかなものだとしても、自分の身体の不調や傾向を無視することもできないし、それを言葉にすることから、身体のままならなさをめぐる思考がはじまるのかもしれない。