春休みはまだ終わらないのだけど、滝口悠生『ラーメンカレー』を読み終えて脱力していたということもあり(節目という感じ)、また、ちょうど月が変わったということもあって、ざっと振り返ってみたい気分になった。ということでさっきまで二時間くらい、過去のしずミーを読み返したり、Xを読み返したり、そのときどきにあったことをカレンダーなどと照らし合わせながら振り返ってみていた。いきなり脱線だけど、しずミー? しずネット? しずイン? どれ派ですか? 読んでいる人がもしいたら、どれが好きかをこっそり教えてください。
まずは、春休みの前半の2/19にわたしがスマホのメモに残していた文章を引用してみる。
ぶつ切りの時間ではなく、ゆっくりした時間に身を委ねること すぐには手応えのある感覚をつかめないことを確かめつつ、一字一字を追っていくことがその都度すごいできごとでもあることを知ること
これは、『ボヴァリー夫人』を読んでいたとき、なかなか小説のすがたが見えてこなくて読むのが進まず、自分を励ますようにして書いたものだと記憶している。しかし、この言葉がでてくるきっかけになった体験は、わたしの春休み冒頭を代表する活動(?)、『続きと始まり』書評のための読書のほうだと思う。『続きと始まり』を読んでいるあいだ、それが長編小説だということもあり、またコロナ禍の描写に引き出される記憶が多かったこともあり、なかなか進まなかった。しかしその体験の中身はすごく濃いものだ、と実感していた。考えてみれば、小説がなかなかすぐに読めないのは当たり前のことだけど、それを実際に味わってみて、それまでの濫読的な本への興味と、それに比して割いていた時間の短さを見つめ直さざるをえなくなった。春休みのテーゼその1は、この「有限性」(この言葉は千葉雅也『勉強の哲学』から来ている。)だ。春休みがはじまったころにわたしがよく友人に言っていた、「ようやく本を読んで生活するということが自分にもできそう」という言葉は、そのような感覚の変化からきていた。頭のなかで、現在という二次元の面にごちゃっと並んでいた書棚が、未来という奥行きのほうへと伸びていき、現在の視界に収める冊数が減った。自分はすぐには本を読めないのだから、その分いま読んでいるものに全力をあげていこう、また、それでもたくさん読みたいのなら、読まなければいけないのなら、そうした必要性に応じて本を読む時間も増やしていこう。そんなふうに、一冊一冊を着実に歩んでいきたい、というふうに目標が変わっていった。
わたしの今年の春休み全体を短くまとめると、「有限性を受けいれるためのプロセス」であり、それは同時に、「自分主体で生きる」ということにつながっていった。春休みのテーゼその2。「実感を大切にする」。
つぎにどんな本を読みたいのか。いま自分はどんなことが気になっていて、どんなことについて自分の言葉を持ちたいのか。こうした問いは、前に夏休みの日記を書いていたときもよく抱いていたから、よく飽きないものだと自分でも思うけれど、夏休みより真剣にそのことを考えていた感じがある。もっとも、『続きと始まり』にせよ『ボヴァリー夫人』にせよ、またそのほか春休みに読んだ本や観た映画などにせよ、自分で選びとった、というよりそういうことになっちゃった!みたいな、飛躍とか思いつきとかばかりだから、あまり考えていてもしようがない、ということも相変わらず学ぶのだけど。(そういう偶然こそ大切にしたい、と、これはいま書きながら思った。)
実感を大切にしなければいけない、と痛烈に感じさせてくれたのは、鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』だ。わたしはこれまで、他者を傷つけないことを行動の第一原理にしてきたと思う。そうなったのにはもちろん理由があって、長く書こうと思えばいくらでも長く書ける過去があるけれど、それも複数あるけれど、いまは措く。かつてのわたしが、本を読まなければいけない、誰かの気持ちをわからないといけない、と思ったのもそのためだ。文学部に来たのもそのため。高校生のわたしには、自分の実感を発露することで傷ついたり誰かを傷つけたり、まわりと自分とのズレを痛感したりすることがたくさんあって、自分は「できない」人間なのだ、自分は「素直」でいてはいけない存在なのだ、と思った。そしていまも、たぶんそう思っている。自分と同じ人間はひとりだっていない、その認識はわたしを大いに成長させてくれたと思うけれど、その分わたしは自分の実感を素直に言語化することを恐れてきた。わたしもまた「ひとりの人間」であるということを忘れようとしてきた。自分と世界だったら、世界のほうに合わせる、というのがわたしにとって基本だった。でもこれは、自分の将来について、社会問題について、自分の生活について、あいまいなままで済ませることにもやがて繋がっていった。幸いなことに、サークルや家族のなかでは、おおむねわたしは適応して生きていられている。でも、この春休みは、自分が自分として生きていくための準備期間だったようだ。竹西寛子からは「自分を恃む」という言葉を、鳥羽和久からは「実感」という言葉をもらい、また自分では「信念」とか「誇り」とかそうした単語を考えてみた。(というかこれも思いつきなので、どこかもわからないところからもらったと言いたい)
この前も「身体意識」について書いたが、考えてみれば、わたしのこの「実感」への傾斜は、2月終わりから3月頭にかけて一週間続いた体調不良期に抱いた、「身体のままならなさ」から来ているような気がする。どういうことか説明したい。
わたしは長いあいだ、歯医者で歯の矯正をしてもらってきた。小学生のころからの付き合いになる。そのころわたしはとても歯並びが悪く、母の強い危惧と勧めから、わたしは夜間の寝ているときにのみ装着する矯正器具をつけるようになった。最初のほうは毎日それができていたし、そこに苦も面倒もあまりなかった。どんどん変わっていく自分の歯並びがうれしくもあった。しかし、高校のとき、部活動で忙しくまた心も始終思い惑っていた時期に、日中の疲れからぱたりと寝落ちてしまうことが続いて矯正の進みが著しく遅くなった。ちょうど部活に行けなかったり仲良くしていた人たちとの関係もうまくいかなくなったりして、自分は頑張れない人間なのだろうかという思いが離れなくなった。そして当時の自分には、すべてに向き合う胆力も、嘘をつかず自分本位に生きるだけの勇気もなかった。このとき自分に刻みつけてしまった「自分は努力できない人間だ」という自己認識は、いまでも大いに尾を引いている。この春休みも、免許、読書会、バイト、執筆、そしてこの歯の矯正など、様々な場面でそのストーリーは毎日顔を出した。だから、コロナ禍を経て高校卒業を経て、何年かぶりにそれを再開しようと決意したとき、歯の矯正は「日々努力すること」の象徴になった。わたしにとってそれは、未熟で甘ったれで欲望に弱い自分に打ち克ち、ちゃんとした大人になる、いわばイニシエーションになってしまった。実質的に歯がどうなっているのか、ということは二の次になった。
当然わたしは、大学に入ってからも(幸い、生活環境もメンタルも高校よりは安定したのでそのときよりはよほどできるようになっていたが)心身が不調のときは相変わらずつけることができず、一度先生から叱られたこともあった。それも、朝起きたら口内に矯正器具がひっかかっていて痛かった、という体験の恐怖感からつけられなくなったのであって、うまく先生にそれが伝わらなかったのはものすごく悲しかったのだけど…(先生はわたしの話を意志の問題ととった。) それで、今度の体調不良のとき、弱い皮膚だったり花粉症だったりを同時に気にかけながら、またしても矯正器具をはめられない夜が続き、あるとき、「わたしは、矯正器具を毎日つけることができない」と、底についた感触があった。この「できなさ」は、前の「頑張れない」とは全然違う。意志の問題ではなくて、「どうしても限界がある」ということを自覚する経験だった。それから、自分が歯並びをもう不満に思っていないこと、「やりたくないことはやる必要がない」「やりたくないことをやることは難しい」という、いわば当たり前のことに気づいていくのだけど、上のような努力のストーリーを、疑ってかかったことすらなかったわたしにとっては相当な変化だった。歯の矯正だけではなく、基本的にわたしは五日やったら二日休まなければ気が済まないたちで、さぼれる瞬間をよく探しているのだ、ということにも気づいた。大学の授業とかについても、全然行けるけど今日はなんとなくさぼりたい、まあこんだけ出たのだから、みたいな心の動きがある。そのころなぜかぼーっと見ていたダイエット系トレーナーのshortsで「チートデイ」という単語を見つけたときは、これだ、と思った。矯正にも楽器の練習にもチートデイが欲しかったが、チートデイすると一気にもとに戻るのがわかる。わたしは毎日続けられないダメなやつだからいつまでもこうなんだ、みたいな思いがずっとあった。
でも、わたしはなんでもできるわけじゃないしなににでもなれるわけではない。無理なものは無理。当たり前なことだけど、その当たり前を実感できたことがわたしにとって大きなことだった。
ならば、その「有限性」のなかでなにができるかを考えてみたい。というよりも、「無限」とか「透明性」を夢想することなく、実感と世界との折り合いや衝突や葛藤を、誠実に考え抜いてみたい。「正しさ」によりかからないで、自分の頭で考え抜いて、それに責任を持ちたい。縛られているものと格闘することによって、その道のりと傷において、自由になりたい。いまはそう思う。
勉強の仕方を考えるために、千葉雅也『勉強の哲学』を読む。パレスチナ問題について深く知り、自分で語れるようになるために、臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』を手に取る。固有性とはなにか知りたくて片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』のページを繰る。まだまだ勉強ははじまったばかりで、自分がいかにこれまで勉強してこなかったか毎日知る。いかに自分があいまいな考え方で日々を捉えていたのか、ということを。だから、この春休みは、「自分が案外大したことのない人間だった」と思い知るためにあったのかもしれない。寝込んでいるとき、いま死んだらやりきれないな、と思ったのだけど、死への自覚はすぐさま覚醒や発見を意味しない、すぐに大した人間になれるわけではない、とわたしは思った。死んだらしょうがない。道の途中で死ぬことになる、そしてできる手立てはない。
ただ、大したことないからといって実感をおろそかにしていいわけではない。大したことないことこそ書き留めないといけない、続けないといけない、と思った。だいたい、「大したこと」というのは誰にでも言えるものだ。「正しさ」と近い。そうじゃないところにこそ固有性がある。「大したことないこと」はすなわち「細部」であり「具体性」だ。「細部」を地道に検証していく日々を積み重ねて、ゆっくり、なんとかいろいろなことについて自分の言葉で話せるようになりたいのだ。テーゼ3は「細部」だ。(と、いま思った!)
今年はじめて読んだ本は小説でもエッセイでもなかった。津村記久子の『苦手から始める作文教室』という、中高生向けに作文の書き方を教える本なのだが、わたしが今年から日記を書こうと思ったのも、その本のおかげだった。長めに引用したい。
少しむずかしい話かもしれませんが、自分の考えたことを書き留める行動は、自分という人間を内側から支えることにつながります。それは、自立という状態にもつながってます。その状態は、いつもいつも誰かにそばにいてもらって話を聞いてもらったり、話を整理してもらったり、話をほめてもらったり、話をほめてもらえないからといって怒ったり悲しんだりすることをせずにいられる状態でもあります。ものすごく乱暴に言うと、お母さんにずっとそばにいて話を聞いてもらったり、誰かを無理やり話を聞いてくれるお母さんに仕立てあげたりしなくていい状態です。この自立という状態は、自由という価値のあるものへとつながっているようにわたしは思います。
「第4章 メモをとろう」より(p.47-48)
有限性の自覚も、実感の尊重も、細部へのこだわりも、「書く」ということにつながってくる。ここまで振り返ってきたことがここに収斂していく感じがする。だから、わたしは明日も読み、書きたいと思う。
春休み読んだ本(のうち、思い出せるもの。大いに読みかけ含む)
柴崎友香『続きと始まり』「宇宙の日」、竹西寛子『竹西寛子精選作品集』『贈答のうた』、滝口悠生『ラーメンカレー』、滝口・植本一子『さびしさについて』、鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』、臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』、千葉雅也『勉強の哲学――来るべきバカのために』、片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』、フローベール『ボヴァリー夫人』、蓮實重彦『『ボヴァリー夫人』論』、保坂和志『季節の記憶』、堀江敏幸『雪沼とその周辺』、チェーホフ「中二階のある家」「イオーヌイチ」、河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』など。(書き出してみたらだいたい読みかけだった)
観た映画
ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』、『瞳をとじて』、三宅唱『夜明けのすべて』、小森はるか『空に聞く』『かげを拾う』、清原惟『すべての夜を思いだす』、濱口竜介・石橋英子『GIFT』、早稲田大学映像制作実習『未明、落ちる星』『王様にズボンを』
最近買った本
アンジェラ・チェン『ACE』、古賀及子『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』、植本一子『愛は時間がかかる』