2024/02/11

atoraku
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夕方に、夜ご飯を食べたあと梅酒のロックを二杯飲んだのだがこれを書いている0時前にはもうすっかり抜けていて、うっかりすると飲んだことさえ忘れてわたし自身から抜けている。高校の吹奏楽部で同じパートだった同級生とのグループラインで3月に遊ぶ予定を調整している折、なにげなくそのうちのひとりがいま飲んでいるお酒の写真を送ったことがトリガーでわたしも飲みたくなった。そのひとはふだんお酒を全然飲まないのだが、なにがあったのか7%ある翠ジンソーダの缶を撮っていて、でも一口でギブアップした、消毒液が鼻から抜けてった、と言ったので相変わらずだった。わたしが梅酒飲もうかな、と打って送ると、わたしのほかにもうひとり反応したひとがいて、そのひとは明日(12日)が誕生日なので家で家族とワインを飲んでいるとのことだった。わたしは、今日は朝から映画を観たりそこそこ寝不足だったりしてこの日記が書き終わったら寝ようと思っているのだが、書きながら、日付が変わるまであと何分かを気にしている。その友人は(というふうに書いていると、わたしのほかに五人いる同じパートの友人たちを区別できないから、仮名を使おうか、部活内のあだ名で呼ぼうか、どちらもしっくりこなくて悩む)誕生日にブックカバーをくれて、とても嬉しかった。けっこう前に本が読みたい、なにかおすすめはないかと訊かれたことがあったから、本を贈ろうかと考えている。ところでそのときわたしはなにをおすすめしたのだったか、まるで記憶にない。友人の好きな本ははっきり覚えていて、向田邦子のエッセイだと言っていた。だから、さすがにそれとは全然違うけど、わたしにとってはすごく大切な須賀敦子のエッセイ本を贈ろうといまは思っている。高校生のときにわたしとその友人とで向田邦子、という名前は出なかった。わたしはそもそもその名を知らなかったし、好きな本を話す、という機会や空気自体がなかった。いまわたしは、かろうじて大学一年生のころに手に取った向田邦子「父の詫び状」を読んだときの記憶や、気持ちのいい切れ味と風通しのよい距離感が印象的な彼女の文章のなかで見た風景のようなものを思い出しながら、それを通してすでによく知っているはずの友人を透かし見ようとする。ところで、わたしが文学部に行く、と言うと中・高の友人はとても驚くかとても納得するかの二択で、自分自身そのどちらの感覚も高三のころ抱いていたような気がする。わたしは小説や芸術にいままで触れてこなかったけれど、いまは確かに触れてみたいと思っている、というふうに。でも、文学部に行くから本が好きなのではなく、誰しもが本や映画や演劇や写真やアイドルや音楽やあらゆるものとのあいだで大切な時間を生き、それぞれに大切ななにかがあって、それは友達の間柄でも簡単には見えてこないものなのだ、そしてそれは文学部に進むかどうかに限らず誰しものうちに起きていることで、実際に、文学を知らないと思っているわたしのなかでもちゃんと起きていた。文学部に入ったことでわたしのなかで変わったことがあるとすればそのような体験を見出したり大切にしたりする姿勢、「文学と人」に向き合う姿勢そのものなのだと思うけど、これもたぶんわたしが気づくより前に、高校でわたしと過ごしてくれた多くのひとが気づいていただろう。とにかく、誰かが人知れず過ごしたかけがえのない時間について思いたいと感じるようになったからこそ、その友人と好きな本を語ることができたのかもしれない。いや、まったく逆なのかも。偶然差し出された「好きな本を話す」というできごとによって、「自分から見える誰か」のずっとずっと奥にあるかけがえのない時間について考えるきっかけが与えられたというほうが正しい、と思う。いまのわたしが生きているのは、そんなできごとの数々によってでしかないのだ。

ほんとうはお昼に見た映画の話や、その帰り道に見た衝撃的な駅前の光景について書きたかったのだけど、まったく違う方向に筆は伸びた、でも書いてよかった。日記をひらいてよかった。

関わってくれている人にどこかでそっと恩を返せたらと思う。どんな形でできるのかはわからないし、自分自身によってその瞬間を知ることもできないけれど。