2024/03/18

atoraku
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日付書いてもうですか、と思う。二進も三進も(にっちもさっちも、こう書くんだね)行かない日はあってそれが今日、図書館に行ったまではいいものの、いや行くまでの電車も本を読むことはできずひたすらぐるぐると考えていたのは、町屋良平『1R1分34秒』のことではないけれどその作品が持つ瞬間の濃密さへの飛び込み方で、わたしはここ最近悩んでいるのだがその悩みは嬉しいような泣きたいようなはっきりしない、どうも新しい自分になる前の感じがするが、そんなこと経験したことがないから、というより思い出せないから本当にそうかわからない。でも、たしかに自分の感じ方をひとしきり検めようとしているところはあって、どんなことを嫌がるか、どんなことをやりたいか、どんな言葉が自分の内側にあるのかということをひたすら考えつづけている。小説を読むことは自分のなかにはなかった言葉をぼーっと自分のなかに入れることで、それがすぐに効果を及ぼすこともあればそうでないこともあるし、心という土壌に建立されてはすぐに壊されてしまう脆い言葉の建築が、将来の思考やビジョンの元になる、とこれは多和田葉子がどこかで言っていた読書論で、たぶんわたしはそれを管啓次郎の本で読んだ。本は読めないものだから気にするな、本は読めない。だから本を読む。

大手町の丸善はわたしを吸い寄せる働きをしているらしく、オアゾという響きの水っぽさからしてあの建物は大きい海、縦長の海。悩みに悩んでここでアレを使うか、と図書カードを出し、赦された買い物を楽しむ。片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』、サイード『知識人とは何か』、臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』を買ったら、図書カードの分よりちょっとオーバーして現金で払った。レジの方の接客は落ち着いていてこちらと会話している感じもあるのに愛想が良いという感じでもなく自然体で、忙しさの受け流し方と目の前の捉え方がわたしにはできないような佇まいをしていた。わたしはどうしても真正面から全部受けとめます、みたいな接客になってしまい、愛想過剰、過集中、みたいな感じでしばらくするとスタミナが切れてしまうのだが、このスタミナというのは前日に町屋良平を読んでなければ自分からは出てこなかった語彙で、と、こんなふうにつらつら書いてみているのはラカン派精神分析が自由連想を診断の基礎においているらしいと知ったからだった、いまこうして書いてみて自分のなかでなにかが起きているのかはまったくわからないし、なにかでてきたものに対して意味づけることはしてはならない、と書いてあるから無理して考えない、とりあえず書き出してみる。

ということでラカンのそれを読んでみたりしているのだが、すごく面白い、わたしのしたいことも抑圧されたシニフィアンの回帰を見ることで無意識の〈法〉と意識とのかかわりをすこし変えることですよ、と慣れない言葉を思い出しながら書いてみる、いま自分の目の前にはこの前買った岩波新書がおいてあって、これは目下の話には全然関係ないがこれも大手町丸善で買った。行きすぎ。と、ここに書いてない日も買ってない日もだいたいわたしは書店に足を運んでいて、なにも買わなかったりなんならなにも見なかったりしている。一昨日のバイト前もそんな感じだったけど、沖縄の生活史はさすがに欲しすぎてバイトがんばる。一昨日って言ったけど昨日だ。昨日はそれに図書カードを使うつもりだった、一日で変えてしまった。

そんでこんなにだらだら書いていていいのかわからないが保坂和志の最近のやつもこんな感じなのか?いや、連載として小説として書いている以上もう少し整えたりしているのだろうが、というのもわたしはいまこうしてほとんどなにも考えずに書き続けているのだがこれが小説になるとは微塵も思えないし、そういう飛翔する瞬間があるような感じもしない、小説に飛翔する瞬間、というのはわたしがたとえば金井美恵子のエッセイの好きなやつとか自分で書いた日記のなかでとくに忘れがたいやつとかの末尾とかに起きている現象で、滝口悠生の日記、あれはたしか正月の日記でもそういう感じがした。集合、解散に入ってる、佳以さん、は郷原佳以さん。郷原さんはこの日記本だったり植本一子さんや金川晋吾さんの著作をかなり読んでいて、『いなくなっていない父』の書評ツイートでも小説になってしまう瞬間、みたいなことを言っていて、わたしはすごく読みたかったのだがなぜかそんなにいままで手を出してない。右頬が痒い。身体のあちこちが痒い。寝がたいくらい痒かったりするが、あんまり意識しないようにしている。意識するとめちゃくちゃやらなきゃいけないことが増える感じ、日々ケアし続けられるか自信がない。